■はじめに――――――

 本記事は、貴志祐介氏原作「悪の教典」(文春文庫/上下巻の小説、講談社/全9巻刊行の漫画版、作画は烏山英司氏)の二次創作小説となります。

 閲覧に至っての注意点等は下記を。

 


――――――

 

 

 

 

 眼下の牧場で、四十頭もの羊たちが青草を食んでいた。

 四周を鉄柵に囲われたその中で、そいつらは互いに頭を寄せ合ったり、じゃれつきながら『飼育の時』を過ごしている。

 切り立った崖上がいじょう)からそれを眺めるのは、とても良い心地だ。

 これほどの明晰夢めいせきむ)の中に居るのは、何日ぶりだろうか。

 ましてや、自分を含めたすべての人間が動物に置き換えられた夢を見ているなど、初めてのことかもしれない。

  私の姿はいま、銀白掛かった体毛に全身を覆われた、一頭の狼に成り代わっている。

 しなやかで強靭な四肢、極めて鋭利な、妖しく濡れた牙、そして彼ら彼女ら一頭一頭の様子までつぶさに捉えられる鋭い眼光⋯⋯。

 夢の中に居てさえ、私がこの地の支配者であることは容易に把握できた。

 何頭かの羊たちが私に向かって、しきりに鳴き声を上げる。

 戦慄わなな)きとは無縁な、嬌声。

 実際、燦々さんさん)と降り注ぐ陽光を背に崖上に君臨している私の姿は、悠然と佇む偉大な守り神として映っていることだろう。

 興じて私も、喉元を鳴らして艶のある猫撫で声――ろう)撫で声、か?――を発してやる。

 すると、ますます羊たちの歓呼が牧場全体に充満し、さながら壇上の神父に皆が恭順の意を示す、聖餐ミサ)の如きおもむき)が醸成されていく。

 次々と注がれる尊敬のまなざしに満悦していたところ、ふと、群れから外れた二頭の羊が目に付く。

 他の多くの羊たちとは違い、私に対し怯えたような視線を投げ掛け、身を寄せ合いながら隅の方で震えている。

 鉄柵の外を見やると、鋭い目つきをしたヤマネコがおり、その二頭を一瞥(いちべつ)した後、私に目を移してきた。

 まだ幼さを残した容姿のその肉食獣は、口を軽く開いて四本の犬歯をちらり、と見せつけてくる。

 傍らを流れる小川の縁には、腹を上に向けて干からびかけているワニの死骸があった。

 私の目がそれらを見つめている間にも、羊たちの歓声は止むことなく続いている。

 口角がじわり、と緩むのを感じた。

 どうやらまだ、捕食者プレデター)の排除が不完全だったようだ。老いぼれワニの放逐で一段落付いたと思ったのだが⋯⋯。

――Everything is as I wish it.

 私の統べるこの王国に『革命』などは起こり得ない、そう知らしめてやらねば。

 次なる追放バニッシュメント)の標的を見定め、きびすを返そうとした、その時だった。

 

 ズゥゥン⋯⋯ズゥゥン⋯⋯。

 

 地鳴りのような重々しい音が耳朶じだ)に響く。

 地震⋯⋯? 

 いや、違う。何者かの足音だ。

 それも、とてつもなく巨大な。

 

 ズゥゥゥン⋯⋯ズゥゥゥン⋯⋯⋯⋯。

 

 何層もの振幅をまと)った音がすぐ近くで止み、ようやく振り返る。

 

 ⋯⋯!!?

 

 見ると、軽く私の三倍、いや五倍の大きさはあるであろう、一頭の鹿が屹立きつりつ)していた。

 その、幾重にも枝分かれした二本の角――体躯たいく)同様に長大な代物だ――からは、朝露に浸ったかのように無数の雫がしたた)っており、まるで北欧神話にて伝承されている牡鹿、『エイクスュルニル』を思わせる風格があった。

  混乱と驚愕の中、そいつが牧場の方向に顔を向けていることに気付く。

 そして、一片の唸り声も漏らさず、私に対し顎をしゃくり上げるような動作をする。

 その仕草が何を意味しているのかは、明白だった。

  去れ⋯⋯と? 

    一体何なのだ、こいつは⋯⋯?

 この地の王である私に、命令⋯⋯?

 ふざけるな。巨躯きょく)が自慢なのだろうが、所詮、(こうべ)を垂れて草を食んでいるだけの分際で。立場を弁えない反逆者は王たる私の牙によって⋯⋯。

 

(カタカタ⋯⋯カタッ⋯⋯カタカタッ⋯⋯)

 

 不意に身体に覚えた違和感から、左前脚を見やる。

 震えている⋯⋯。

 ⋯⋯恐れ? 

 バカな。そんなはずなどない。

 こんな⋯⋯単なる被捕食動物ウィークリング)に、この私が⋯⋯。

 目の前の大鹿は、身じろぎ一つせず、ただただ黙って私の姿を見下ろし続けている。

 

――ッ! グゥオアアァッッ!!

 

 全身が泡立つような憤怒に駆られ、バネのように弾かれた私の身体は、一直線に大鹿のもとに向かっていった。

 血も凍るような南極海で、主食たるペンギンに食いつくヒョウアザラシのような四本の牙が、そいつの首筋を捉える。

 

 ギリッ⋯⋯ギリッ⋯⋯。

 

 会心の力で咬合こうごう)してやると、鈍い音とともに大鹿の首から鮮血が一筋、二筋と垂れ落ちていく。

 依然、微動だにしない様のそいつは、中空を睨んだまま、静かに立ち尽くしていた。

 勝負、あった。私はほくそ笑む。

 そうだ。何も恐れることなどなかったのだ。

 この地に私を脅かす者など、あってはならない。

 ましてや、どこの誰とも知らない、身の程知らずの木偶でく)のぼ――ッ!!??

 

 ドボォォォッッ!!!

 

 一瞬、何が起きたのか全く分からなかった。苦痛よりもその衝撃が先立ったのは確かだったが。

 私の右半身、丁度、前脚の付け根から脊椎の間に、大鹿の『く』の字に曲がった左脚の関節が突き刺さっている。

 反応すらできない、とてつもない速度の膝蹴りだった。

 

 ミリミリッ、メキッ⋯⋯ボギッ⋯⋯。

 カハァッ⋯⋯! アァァッ⋯⋯。

 

 骨が軋みを上げて破壊されるいや)な響きを耳に、身体は力なく落下していく。

 そして、地に伏して荒々しい呼吸を繰り返している私の目に、首から何筋もの血を垂れ流しながら睥睨へいげい)してくる大鹿の姿が飛び込んでくる。

  再び激情した私が、血反吐混じりの絶叫とともにそいつに飛び掛かった、その瞬間だった。

 

 ズガアァァァッッ!!!

 

 宙に浮いた私の下に素早く潜り込んだ、大鹿の頭が見えたかと思うと、そいつは一気に二本の角を振り上げ、私の身体を垂直に弾き飛ばしてしまう。

 

 ギュルギュルギュルギュル⋯⋯。
 ~!!!

 

 身体の自由が全く効かない。

 制御不能な『上昇』を終えた私はすぐさま、錐揉み状態で『下降』に向かっていく。
 負ける⋯⋯?

 この⋯⋯私が⋯⋯?

 牧場の羊たちの悲痛な声を遠くで聞いた気がした。

 いや、それはもしかしたら、二羽のカラスの鳴き声なのかもしれなかった。

 着地する直前に目に映ったのは、まさに私を谷底に蹴落とさんとする、大鹿の蹄。

 そして、刹那によぎ)ったのは、とある一人の男の面影だった。

 

―――

――

 

「ハスミ。起きているなら返事をしろ。点検の時刻だ」

  まだ見慣れない独房の天井がぼんやりと視界に拡がり、『人間』蓮実聖司はすみせいじが意識を取り戻す。

 「⋯⋯」

 二畳間に敷かれた布団から上体を起こし、軽く指で両目を揉んだ後で看守に向き直る。

 「おはようございます。毎朝お勤め、ご苦労様です」

「おべんちゃらなどいい。さっさと布団をたため。待っててやるから」

「ハハハ⋯⋯すみません」

 蓮実は笑みを漏らすと、いそいそと立ち上がり、先ほどまでの悪夢の温床を直しにかかる。

  ⋯⋯しくじり、だ。

 そして、ここ数日、目覚める度に総毛立つような屈辱に思いを馳せる。

 私の王国の運用は完璧であるはずだったのに⋯⋯。とんだ横槍を入れられたものだ。

 だが、今朝は収穫もあった。あの悪夢が終わる直前、バカでかい牡鹿の化身として姿を現した、あの男。私にあらん限りの敵意を剥き出しにしてきた、あの男。

 夢診断など、一切信用しない蓮実ではあったが、それを確信していた。

 あの男が私を王座から蹴り落したのだ⋯⋯。

 そして、もう一つ得た確信。

 私は、あの男に会ったことがある。

 だが、どこで、どんなきっかけで会ったのかまでは、分からないでいた。

 自分と同年代の男であったことまではうっすらと記憶しているのだが。
 名前までは⋯⋯確か⋯⋯『キノ』⋯⋯いや⋯⋯『ヒノ』?   

  ⋯⋯駄目だ。今は、どうしても思い出せない。

 「どうした? 早くしろ」

 看守の声が、蓮実を追想から現状に引き戻す。

 布団をたたみ終わり、手早く洗顔を済ませ身支度を整えた蓮実は、看守と共に独房を出る。

  

 まあ、いい。じきに思い出すことだろう。そして、思い知らせてやらねばならない。王に立てつく禁忌タブーを犯した者がどのような報いを受けるのかを。

 そして、我が教え子たる羊たちにも。貴様らがかしず)くべき者は、この私であるべきなのだ、ということを⋯⋯。

 蓮実は、今後の算段に薄ら笑いを浮かべながら、留置場の廊下を歩いていた。