■はじめに――――――
本記事は、貴志祐介氏原作「悪の教典」(文春文庫/上下巻の小説、講談社/全9巻刊行の漫画版、作画は烏山英司氏)の二次創作小説となります。
閲覧に至っての注意点等は下記を。
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蓮実はその日、いつになく喜々として、愛車であるハイゼットを操縦しながら、七国山にある借家までの帰途についていた。
新年度が始まり、自分の理想とする王国を誕生させてから、およそ二ヵ月。
多少の無理を押しつつ、あらゆる厄介者たちを葬ってきた苦難の日々が、今日で報われたような思いだった。
気分の高まりに合わせ、運転席の窓を開けて、車内に外気を入れてみると、初夏の終わり特有の、しっとりとした風が頬を打つ。
フロントガラス越しに映ずる、微かに臙脂色を帯びてきた西の空には、薄雲を棚引かせた宵月が鎮座していた。
⋯⋯Just as there isnot the slightest dent in the full moon,So this wholeworld is gloriously mine.
教職に就いて間もないころ、何かのきっかけで読んだ、ピーター・マックミランというアイルランド人日本文学者の、かの有名な和歌の英訳である。
古文に造詣が深い訳でもなし、ましてや今、上空に漂っているのは、望月からは程遠い痩せっぽちな三日月なのだが、ついそんな一文が口を付いて出てしまうくらい、今日という日は、自分が教育の世界に身を転じて以降、最高の一日だった、ということだろう。
歓喜の装いそのままに、これからの展望を頭に思い描く。
まずは、片桐怜花のことだ。自分に対して不信感を抱いている、としか捉えようがなかった今までの言動が、実は好意の裏返しであったということが分かった以上、将来的に、これを手籠めにしないという法は無い。
ほんの一ヵ月半後には夏休みに突入することだし、それまでに今日の『特別講習』のようなイベントをいくつか設定してやれば、正式なESSの一員として持て成すことなど容易いだろう。
阿部美咲に関しては、クラブ活動中に片桐に対し色目を使わないようにしさえすれば、どうということはない。美咲も所詮は、自分に忠実な『その他大勢の女子』の一人に過ぎない訳だし、不満が出るようであれば、都度なだめすかしつつ、ガス抜きがてら適当に可愛がってやればいい。
ただ、美彌については、より念を入れた対処法を考えなければいけない。
まさか、川崎にあるプライベート・マンションにて、彼女たちをとっかえひっかえしながら弄ぶ訳にもいかないので、今のうちから久米教諭に対して、市外に新たな逢瀬の宿を手配するよう要請しておくのがいいかもしれない。
美彌の勘の鋭さを考慮するとそれでも危険が伴うが、複数の女性と、日々の合間を縫って関係を保つことには慣れている。時間はまだ、たっぷりとあるし、そのうちに、もっと画期的な方法を思いつくような気もする。
いずれにしても、これからは順風満帆な毎日を送れるに違いない。
そうしたあれやこれや、楽しみな見通しに欣喜雀躍しながら到着した、借家の庭にハイゼットを駐車し、ドアを開けて地面を踏みしめた瞬間、それは襲ってきた。
――ゾワッ。
まるで、この世界の全ての『不吉』を凝縮したかのような、胸騒ぎ。
今までの『得体の知れない違和感』よりも桁違いの嫌な予感に、あっという間に取り囲まれていく。
⋯⋯何だ。一体何だというのだ?
単なる気のせいであることなど、分かり切っているのに。
そもそも、冷静に考えてこの数日は、不遇なことなど何も⋯⋯。
――!
蓮実は、何の前触れもなく立ち昇ってきた強烈な不安感を、バカげた杞憂の一種、として打ち消そうとしたものの、とある事実に思い当たり、ハッ、とする。
『モリタート』が、聴こえてこない。
そう、少年の頃から、気分がいいとき、ことが全て自分の思い通りに進んでいるとき。耳に飛び込んでくる、自らが吹いたあの、口笛の音色が。
蓮実はその場に立ち尽くし、愕然とした。
こんなことは初めてだった。
自分が無意識に口笛を吹いていたのを事後的に知る、それが習い性であるのに、口笛を吹いていないことに後から気づかされること、など。
――どうした? さっきまでえらくゴキゲンだったのによ?
頭上で何者かの声が響く。
驚いて、借家の屋根を見上げると、一羽の巨大なカラスが自分を見つめていた。
「記憶⋯⋯いや⋯⋯思考⋯⋯?」
左眼だけが白濁している、禍々しい容姿の背後には、巨大な漆黒の影法師が聳えており、そいつはまるで、今は亡き『片割れ』を冥界から憑依させたかのような、一段と異様な外観となっていた。
精神的な動揺から、幻覚を見ているのだろうか。
虚を衝かれた形相で、頭の中に直接語りかけてくる『声』を聞く。
――大嵐が来るぜぇ! 兄弟。それも、超ド級のな。記憶を覗いたんだが、ヘタすりゃあのアメリカ野郎以上の強敵のお出ましだ! 俺を生かしておいてくれてたら、こうなる前に知恵を貸してやったんだけどよ。まあ、これも因果応報、ってやつだな! ギャハハハ!!
『ムニンの中に居るフギン』が下卑た笑い声を上げた。
――まったくだよ。呑気なことばっかり考えてて。けれど、今からでも出来ることはあるんだから。吹き飛ばされる前に、やれることはおやりなさいな。
フギンの嘲りを取り次いだムニンが、何やら意味の分からない忠告をしてくる。
これは、一体⋯⋯。私の耳には何が届いている?
唖然としながら、けたたましい声の主を凝視し続けていると、突然、ムニンにまとわりついている真っ黒な影が、両翼を天に向かって広げるかのように、一挙に噴き上がった。
――心配するなよ、兄弟。人生にちょっとした挫折はつきもんさ! な〜に、いざとなりゃまた俺がこうして出てきてやるからよ。それまで記憶の言うこと聞いて、いい子にしてろや。それじゃあ、な。⋯⋯ギャハハハ!!
しばらく鼓膜にこびり付いて離れなくなるほどの哄笑を残し、ムニンを離れた思考の影が上空に立ち昇り、静かに消えていく。
そこで、『声』は止んだ。
我に返って見上げる屋根には、未だ一羽のカラスが居り、黙したまま、こちらに対して鋭い視線を浴びせ続けていた。
「⋯⋯」
数分ほどの沈黙の時を経て、蓮実は動いた。
自分でも何故、そうしようと思ったのか分からない。
見えない何かに駆り立てられているかのようだった。
借家の玄関を開けて、施錠を済ませると、取るものも取り敢えず、和室の押し入れの奥にあるUSBメモリを探り当てて、PCを起動させる。
液晶に表示された、学園内において盗聴器や生徒からの密告、その他の方法を使って得た二年四組の生徒たちの個人情報を、一人一人具に参照しながら、入力に大幅な手直しを加えていく。
一段と深く淹れたインスタント・コーヒーを、合間に何口も含みながら、数時間かけて改竄を終え、PCから離れると、今度はその勢いで勝手口から裏庭に向かい、外の物置きからシャベルを取り出した。
――自分は何をしているのだろうか?
もし、先ほどの『声』が仕様もない、自分自身が産み出した単なる妄想であったとすれば、ただ手間がかかるというだけの、徒労極まりない愚行に過ぎないというのに⋯⋯。
だが、それ以上に頭の中はもはや、これから襲い来る何かへの備えのことで満たされつつあった。
⋯⋯『大嵐』が来る。
蓮実は思考――が憑依した記憶――の不気味な警句を独りごちると、裏庭の一画に、一心不乱に穴を穿ち始める。
ただ、その作業の間にも、数十cm四方の穴の中に『埋蔵品』を入れて上から土を掛け、後から自由に取り出せるようにするための漣痕をその近くに刻んでいる間にも、『モリタート』の旋律が聴こえてくることはなかった。
代わりに、勝手口のドアを閉めたと同時に聴こえてきたのは、まるで二羽のカラスが互い違いに大笑いしているかのような、庭先を吹き抜けていく夜風に揺らぐ、借家の震音だった。
町田警察署生活安全課の応接室で、下鶴幸平は真向かいに座った男の不敵なまなざしと、テーブルに並べられた『三種の物証』を交互に見やりながら、大きな溜め息をついていた。
「⋯⋯アンタは、相当に頭が切れるか、それでなきゃ、心底イカれてるか⋯⋯いや、その両方だな」
唇にねじくれた笑みを湛えた下鶴に対し、志野凛太朗は、こともなげに述べる。
「イカれてる、のはお互い様でしょう? 下鶴刑事。概要は今、お話しした通りです。蓮実をこのまま放置しておくことがどれほどの危機か、あなたならよくお分かりかと存じますが」
下鶴は都立**高校で起きた、四人の生徒が立て続けに校内で自殺を遂げたという、あの痛ましい事件を思い返していた。
捜査一課内でも、蓮実が犯人であるという共通意識の元、連続殺人の線で追及の手を伸ばすべき、という声も上がったが、具体的な証拠がない以上、組織としては矛を収めざるを得ず、そのせいで自身が憂き目を見ることになってしまった、あの事件。
それとは別個に、よもや、こんな機会から蓮実の身柄を確保できる可能性が拓けるとは。
しかし、現在の自分の立場を考えると、浮かない顔つきにならざるを得なかった。
「言いたいことはよく分かったし、事情も掴めたよ。うまくやりゃ、奴をお縄に出来る、っつうこともな。⋯⋯だがよ。生憎、今の俺の権限じゃあ、被疑者の取り調べなんて、土台、無理さ。それも、自分が飛ぶ原因にもなった事件でさんざん追ってたのと同じ人間を再度詰める、となりゃ尚更な」
下鶴の瞳には、諦念と卑下の感情が入り混じったような色が表出していた。
凛太朗はその様子に、柔和な表情を崩すことなく続ける。
「仰りたいことはよく分かります。都立**高校の捜査の件で、あなたが不条理な異動に追いやられてしまったこと、怯懦なご心中になるのも無理からぬことです。⋯⋯そこで、こんなものも用意しました」
凛太朗はダレスバックからA4用紙を取り出し、印刷面を表にして、テーブルの上に差し出した。
「!」
下鶴は驚きを隠せずに、その文面をまじまじと視読する。
それは、一枚の誓約書だった。
・本件における、下鶴が蓮実に対して行う『取り調べ』については、その実行者たる下鶴ではなく、提案者の凛太朗が一切の責任を負うこととする。
・仮に、この一件で蓮実の事件関与、犯罪実行の立証がなされなかったとの判断に着地した場合、責任者たる凛太朗に対しては、誣告罪を始め、各種罪状に準じた刑事罰が科せられる事態を、避けられないものとする。
・蓮実の自白を取得し、逮捕、拘留に至ることができたときの功績についてはすべて、取り調べの実行者たる下鶴に付与される。
以上のような文章が並んだ紙面の右隅には、凛太朗の直筆のサインと実印があった。
「⋯⋯やっぱり、イカれてるよ、アンタは」
凛太朗は下鶴の呟きに微笑むと、間髪入れず真摯な様相に変貌した。
「協力をお願いしている身空から何ですが、これはすでに、あなた一人の進退の問題ではないんです。そうした事態をとうに超過している。現に、危険を承知で、こうして蓮実の悪事を暴くための証拠を揃えてくれた子たちが学園の中に居る。私は一教師、一市民として、あなたは一刑事、一公僕として、犯罪者の手からこの子たちを守らなくてはいけない。⋯⋯あのような悲劇は、もう二度と繰り返してはならない。違いますか?」
下鶴は、上着のポケットから何かを探るような動作をして、再び溜め息をつく。
煙草でも喫みたいのだろうか。凛太朗は、尚も下鶴から視線を外さない。
「⋯⋯分かった。一般市民に過ぎないアンタから、ここまでお膳立てをしてもらっといて、敵前逃亡なんざ、人間としての資質が疑われるってもんだ。捜査一課には旧知の奴もまだ居るし、一度きり、ってんなら何とか通せるだろう。それから、こいつはありがたいが、受け取れねぇよ。俺だって刑事の端くれだ。仕事で起きたツケくらい自分で払えるさ」
下鶴はそう告げると、『誓約書』を押しやった。
凛太朗は深々と頭を下げる。
「今日、改めてお話出来て確信しましたよ。蓮実を逮捕に持ち込めるのは、あなた以外に居ない。絶対に大丈夫です。⋯⋯お互い背負っているものは違いますが、今回の件で、共有している思いは同じ筈です。どうぞ、よろしくお願いします」
そう言い残し去っていった、細面な一教師の姿を脳裡に描きながら、下鶴は「よっし」と、自らを鼓舞するかのように口にすると、携帯電話を手に取る。
「よう、増渕。ご無沙汰だな。今、大丈夫か? 忙しいところ悪いが、一つ頼みてぇことがある。⋯⋯無理は承知だ。今週末にでも、取調室に空きを小一時間ほど要請してぇんだが⋯⋯」
「ほお、まるで映画のセットそのままですね。今どきは違法尋問防止のために、もう少し開けているかと思ったんですが」
蓮実は、物珍しそうに、町田警察署刑事部、取調室の内観を見回していた。
「仰る通り、昔はこれよりもっと殺風景でしたよ。それに、ほら、今みたいに出入り口の扉が開きっぱなし、なんてこともなかったですから。⋯⋯本日はご足労をかけてすみませんね。ひとまず、お掛けください」
下鶴からそう促され、蓮実は部屋の中央に置かれたデスクを挟むように一脚ずつ置かれたパイプ椅子の一つに腰を落ち着ける。
部屋の隅には、監督役の増渕保刑事が腕組みをしたまま、壁にもたれかかって立っていた。
苦虫を噛みつぶしたような顔で、どちらかといえば、取り調べ対象の蓮実ではなく、同僚の下鶴に対して不審感を顕わにしながら、様子を窺っている。
「本題に入る前に、一つ。以前勤められていた、**高校の生徒さん自殺の件では、大変失礼しました。随分無礼な捜査もしてしまいまして、どうかお赦しください」
「ハハハ、なに。あなた方もそれが仕事でしょうから。私の潔白を分かっていただいたのなら、それで構いませんよ」
向かい合って座った下鶴から、あの事件についての早々な詫びを入れられた蓮実は、快活に、そう言葉を返す。
「そう言っていただけると助かります。ただ、事前に申し上げた通り、今回はその件とは全くの別立てでしてね。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですよ。先月の末に、あなたが現在お勤めの、晨光学院町田高校ですか。そこの先生が起こしたという⋯⋯」
「ええ、真田先生が泥酔後に、何故か学校まで車を走らせて、帰宅途中の堂島先生を撥ね飛ばしてしまった挙句、酒井教頭の車に衝突した、あの事故について、ですよね?」
蓮実が、下鶴の発言に割り込んだ。
「その通りです。事故のあらましを聞いて、少々気になることがありましてね。⋯⋯どうしても、あなたにお伺いをしたいと思いまして」
話を切り出した下鶴に向けて、増渕は、より一層尖った目つきで無言の圧力を加えてくる。
(本当に大丈夫なんだろうなぁ? おい⋯⋯)
普段は自分が取り調べに回る立場だから、こうして監督役を務めることはほとんどない。それだけでも居心地の悪さを感じるのに、同期の、それも本部と捜査方針で揉めた末に左遷を食らった、下鶴のお目付け役、極めつけに取り調べ対象はその騒動の発端となった事件と同じ被疑者と来た。
通例であれば、絶対に撥ねつけて然るべき申し出なのだが、同い年の同期から「もし、失敗に終わったら俺は潔く、職を辞する。上手くことを収められたときの手柄は⋯⋯お前に全部くれてやるよ」とまで言われれば、『泣きの一回』に協力をしてやらざるを得ない。加えて、普段から妙に下鶴刑事を慕っている、『捜査一課期待の若手』矢内潔からの懇願も大きかった。
とはいえ、俄には勝算があるとは信じ難い策略の片棒を担がされているこの現状に、フン、と鼻を鳴らして、ますますふんぞり返ってみせる。
ただ、そうした憤懣の陰で、この、『蓮実聖司』という男に対するいかがわしさが、自らの中でちらつき始めているのも確かではあった。
今し方、下鶴の話を遮るように事故の概要を淀みなく語ってみせた、その声色、表情。
まるで、一人の小さな男の子が、自分が描いた絵を誰かに褒めて貰うべく、それを自慢気に吹聴しているかのようだった。
とてもではないが、職場の同僚が引き起こした事故について陳述するときの様相とは思えず、それについての事情聴取を受ける立場にある人間の面構えからは程遠く感じられる。
増渕は引き続き警戒を怠らず、双方のやり取りに耳をそばだてる。
「すでにご説明を頂いておるかと思いますが、あの衝突事故が起こった晩のことを、もう一度確認しておきたいんです。事故直前に、加害者である真田さんと二人きりで酒を吞んでらした、ということでしたよね?」
「はい、その通りです。まあ二人きり、とは言っても、頻繁に晨光町田の先生方が利用する『ラビットパンチ』という居酒屋のボックス席で、ということなんですが。そこで真田先生が結構いい感じに出来上がってしまいまして。二人一緒に店を出て、彼に『車内でしばらく休んでから帰る』と言われましたので、心配ではあったんですが私はそのまま徒歩で辞去したんです。今から思うと、タクシーを呼んでやるなり、もう少し気に掛けるべきだったんですが⋯⋯その点は後悔しています」
蓮実は、事故直前の状況を、滑らかな口調で語った。
「ふむ、そうですか⋯⋯。うーん⋯⋯そうか」
下鶴は、敢えて間延びしたような相槌を打つ。
「どうされました? 何か気になることでも?」
それを受けた蓮実は、当然のごとく、その反応に疑問を呈した。
「いえ⋯⋯今、あなたが仰った事情が真実だとすると、どうにも腑に落ちないことがありましてね。⋯⋯実は、事故を起こした真田さんの車内から、こんなものが見付かったんですよ」
下鶴は、おもむろに上着のポケットから、小さなジッパー付きの袋を取り出し、テーブルの上に載せた。
中には、ウェーブの掛かった、特徴的な黒髪が二本入っている。
思わぬ展開に、蓮実は一瞬眉をひそめた。
「私は事故から数日後に、真田さんのお見舞いにも行きましたので、彼の容姿は存じています。この毛髪は明らかに彼本人のものではない。ただ、どこかで見たことがあるような髪質だな、と。不思議に感じて考えたんですが、思い出しましたよ。そういえば、都立**高校の生徒連続自殺の件でお世話になったあの方も、同じような髪をされていたな、と。⋯⋯蓮実さん。今一度、事故直前の状況を振り返っていただけませんかね? 私が何を疑っているかは、もう伝わっているかと思いますが」
下鶴は、努めて平静を装いながら問いかける。
蓮実はというと、内心、肩透かしを食らったように興醒めしていた。
あの、下鶴刑事から、土曜の真っ昼間に、都立**高校の件ではなく、真田教諭の運転事故について自分に話がある、と学園に電話があった、と聞いたときには、これがあのとき『思考の亡霊』が警告していた大嵐か、と身構えたが、とんだ期待外れだったようだ。大山鳴動して鼠一匹。いや、目の前の頓珍漢な男を指して、『こけし一体』か。
まあ、勝ち筋が見えている中で、猿芝居してやるのもまた一興だ。
蓮実は沈着冷静に、軽くジャブを打つ。
「より詳細なお話をするのは構いませんが。その前に、その髪は本当に私のものなんでしょうかね? 確かに見たところ私のそれと酷似はしているようですが、同じような髪形の人間はそれこそゴマンと存在しているでしょうし」
下鶴は食い気味に、些か怯えを孕んだような口調で返す。
「DNA鑑定も可能ですよ? ⋯⋯どうです? 鑑識課にすぐ話を通せますが」
「⋯⋯いえ、結構です。確かにそれは、真田先生の車に残った、私の毛髪だという可能性もあります。⋯⋯ただ、そうだとしても、何も不思議なことはないですね」
「んん? それは一体どういうことですか?」
しおらしく切り返す蓮実の様を見た下鶴が、追撃を開始する。
蓮実は爆笑を堪えながら、その様子を観察していた。
要は『本物の毛髪であることを前提にして、巧みな尋問によって自白を引き出させよう』
という訳だ。
もちろん、このちっぽけな袋に入った黒髪が、本当に全く別人のものであれば一撃で勝負あり、だが、そんなリスクを冒してまで、こいつがわざわざこんな場を用意する筈がない。入手方法に疑問は残るが、これは間違いなく自分のものだろう。
それを前提にすれば、この後どのような質問が飛んでくるかも大方分かる。
蓮実は敢えて『茶番』に付き合ってやることにした。
「実は言い忘れていたんですが、あのとき真田先生は意識はあったんですがかなりフラフラな状態でしてね。彼が後部席に横になるのを手伝ってあげてたんです。そのときに、髪が偶然落ちてしまったんでしょう」
「? そいつは、ますます腑に落ちませんねえ? 髪が落ちていたのは運転席だったんですよ?」
予想通り。蓮実は反問する。
「ああ、それも分かりますよ。いま言った通り、フラフラでしたけど意識はありましたから。横になった後すぐに、『いや、申し訳ないんで』とか何とかで、すぐに起き上がって、運転席に移動されたんです。その際窓を開けられて、お礼の握手を求められたんで、窓から頭を突っ込んで、顔色を窺わせて頂いたんですよ」
その言い分を聞いた瞬間に、下鶴は『しめた』というような顔つきになった。
「それなら、相当におかしいですよ? だって、こいつは真田さんの身体の下、それも丁度お尻の下辺りにあったんですから」
その言い分を耳にして、隅で仁王立ちしていた増渕も、思わず前のめりになる。
蓮実はとうとう、愉快な気分を抑え切れなくなり、「プフッ!」と嘲笑を吐き出したかと思うと、下鶴に止めのリターンを繰り出した。
「なるほど、なるほど! ではこうしましょうか! あの男、失礼、真田先生が運転席で態度を豹変されたんですよ。『あなたと私とでは教育観が相容れない』とかで。見るからに酔い潰れていましたし、ご本人も覚えてらっしゃらないでしょう。一時のことではあったんですが、身体を大きく揺すってもいましたから、彼の身体の上に落ちた私の髪が、下に潜り込んでしまってもおかしくはないでしょうねぇ。⋯⋯それ以前に、これは敢えて言わずに置いたことだったんですが、『その毛髪が、本当にあの車内で見つかったかどうか』ということを、一体どう証明されるおつもりなんでしょうか?」
蓮実が勝ち誇ったような恰好で、同室の刑事二人に交互に視線を送る。
「⋯⋯」
下鶴は俯いたまま、何も返さない。
増渕のこめかみに、たちまち無数の青筋が立つ。わなわなと拳を握り締めて、直立不動で下鶴を睨みつけていた。
蓮実のご満悦な調子が取調室に拡がった。
「いや、お気持ちは分かりますよ。私を逮捕しようと躍起になって用意した一世一代の証拠が、こんな『箸にも棒にも掛からない』代物になってしまったのでは。心底、同情いたします」
「⋯⋯大したヤツだ」
――ダンッ!
下鶴の全く覇気を感じられないボヤきを聞いた増渕が、激しく壁を後ろ蹴りし、彼に詰め寄ろうとした瞬間、掌で制された。なぜか唇に、自嘲とは違う、意味深な笑みを浮かべているのに気づく。
蓮実が、歓喜の思いを隠しながら言う。
「お褒め預かり光栄です。ただ、この件はもちろん直轄の署長に報告申し上げます。一介の生活安全課刑事に濡れ衣を着せられそうになった、とね。⋯⋯ですが、その執念には敬意も表したい。どうでしょう? あなた方の出方次第では今回の旨は水に流すことをお約束するに、吝かではございませんが」
ボンクラの美術教師な金ヅルに加え、まさか現役刑事の弱みまで握って操作出来ようとは。
――There's always a rainbow after the storm.
思考よ、記憶よ! 神託をありがとう!
埒外の釣果に、蓮実の心情は有頂天の極みだった。
「⋯⋯ふっ。勘違いしてんじゃねぇ。アンタを褒めてる訳じゃねぇんだよ」
「えっ?」
下鶴が、生気を取り戻したかのような口振りでそう発すると、蓮実は思わず間の抜けた声を漏らす。
「実はな。この取り調べは、俺の発案でもなければ、警察の捜査能力お披露目の場でもねぇんだよ。⋯⋯とある男がすべて、材料揃えて、筋書きも拵えてくれた。ホントに、大したヤツだよ。アンタも俺も、そいつの掌の上で、くるくるダンスしてただけだ。執念に敬意を表さなきゃなんねぇのは、そいつに、だよ」
「⋯⋯何?」
あまりの口惜しさから、こいつは頭がおかしくなってしまったのだろうか。
蓮実は、意味が分からない、といった顔できょとん、とした。
「ちょっと待ってな」
そう言って席を立ち、室外に出ようとする下鶴に増渕が立ちはだかる。
「テメェ⋯⋯いい加減に⋯⋯!」
鬼の形相を前にしても、今の下鶴の顔にはまったく『敗色』は滲まない。
「そういやお前にゃ、触りは教えていなかったな。⋯⋯こっからが本番だよ」
ポン、と増渕の肩を叩いて姿を消した数秒後、下鶴はその手に『何か』と『何か』をぶら提げて、再び蓮実の正面に現れた。
「さっき、『箸にも棒にも掛からない』って言ってくれたよな?」
ぽかん、と無反応に見つめてくる蓮実を意に介さず、下鶴は、ナイロン袋から取り出した『スニーカーの足跡が型取られた石膏版』、それからロッドケースから取り出した『蔓薔薇の竹棒』をデスクに並べた後、一世一代の迫真めいた口調で、言い放った。
「――『足』と『棒』は掛かったぜ?」
数秒の静寂が取調室を支配した。
先ほどまで怒りに身を震わせていた増渕も、口を半開きにして、まばたきを忘れてデスクに並んだ決定的証拠に目を奪われている。
下鶴が、沈黙を破る。
まずは、石膏版。
「こいつは、学園すぐ近くの林の中で採れたモンだ。ほれ、ちゃんと型取りの前に撮影した写真もある。鑑識の結果、靴の型番と品種は特定できたよ。靴底の消耗具合もな。まあ、ありふれているナイキのスニーカーで、アンタのとこの学校にも二、三人は同種を着用してるのはいるだろうが⋯⋯このサイズで、かつ、この使用日数のものを履いてんのは⋯⋯アンタ一人だよな? 蓮実さん?」
蓮実は、答えない。
次は、竹棒。
「お次のこれだが、見覚えあるかい? あるよな? アンタが真田さんを運転席に移動させた後に、こいつを外からアクセルペダルに押し込んで、車を急発進させたんだからな」
「ハッ、そんなのは憶測に過ぎない⋯⋯何の根拠があって⋯⋯それが⋯⋯」
蓮実が振り絞るように声を出す。
完全に意表を突かれた状態で、脳内の整理が追い付いていないのが明らかだった。
下鶴は、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「確かに、アンタの『毛髪』同様、こいつがどこにあったか、の証明はすぐには難しい。⋯⋯だがよ。こいつが事故当日どう使われたか、それは明白ってもんだぜ?」
下鶴は竹棒の先端を指差した。
「ほら、この部分。僅かだが黒ずんでるのが分かるよな? 衝突後、エアバッグが作動するレベルの威力を生み出すには、相当なアクセルペダルへの踏力が必要だ。靴底で踏むなら苦でもないが、こんな細い棒を、それも窓の外から押し込んだ日にゃ、先端に掛かる圧力はかなりなモンだろうよ。その力による擦れで、ペダル表面の繊維が付着してたって、不思議でも何でも無いわな」
「⋯⋯」
蓮実は、再び、答えない。
「真田さんの車はまだ、関係施設に保管してあるよ。事故から、ひと月と経ってねぇし、まあ処分されたとしても同種の車両で検証は出来るが、『本物』の方が手っ取り早いだろう。⋯⋯さて、これが今日最後の質問だ。俺はギャンブル狂いでもなんでもないが、こいつは一つ、賭けてみてぇな。この竹棒に付いてる黒い染みと、真田さんの事故車のアクセルペダルから、同じ成分が検出されるかどうか⋯⋯アンタもどうだい? チンケな『DNA鑑定』なんかよりよっぽど面白いと思うんだがよ?」
増渕は、まるで金魚のように口をパクパクさせながら、茫然と、事態を眺めている外なかった。
「――フゥッ!」
ややあって、短く息を吐き出し、肩をすくめた蓮実が滔々と語り始める。
「あの男は⋯⋯真田は⋯⋯熱血教師の仮面を被って、影から学校を支配しようとしていたんですよ」
