趙州喫茶去(じょうしゅうきっさこ)
趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)は、中国の唐末の禅僧です。趙州は、三人の人と対面し、等しく「喫茶去(お茶を召し上がれ)」と言いました。
(出典:「くじけない心をつくる禅の言葉」(著者:田中治郎。発行:日本文芸社))
趙州は、悟った僧と悟らぬ僧、それを見ていた院主を一切差別・分別することなく、無心の心で茶を勧めたのです。聖俗、貴賤、上下、好悪等の差別のない境地を、趙州は身で示したのです。
(出典:「くじけない心をつくる禅の言葉」(著者:田中治郎。発行:日本文芸社))
「喫茶去」という禅語は知っていたが、頭に、「趙州」がつく禅語である。
誰に対しても、お茶をどうぞ、と勧める。
人を肩書や地位などで判断する人がいる。
社長がどうして来ないんだ?
市長が挨拶すべき行事だ。
そうした考えもよくわかる。
でも、誰であっても、私はいいと思う。
平社員だから、ダメという理由はない。ちゃんと上司の許可を得て出席したのであれば。
肩書や地位を失えば、ただの人間である。
偉い政治家の先生方も、選挙に落ちれば、ただの人となる。
組織上の地位が上がったり、政治家のような特権階級になると、俺は偉いんだと威張る人もいる。
とても悲しいことである。
でも、多くの人が、よいしょするから、本人もその気になってしまう。
そして、パワハラ、セクハラなどが、生まれるのだと考える。
誰であっても平等に接したい。
人間に上下はない。
私は会社のデスクの下に、ミネラルウォーターをたくさん保管している。
久しぶりに来た人に、「どうぞ」と言って、勧めている。頻繁に来る人だと、私のミネラルウォーターも底をついてしまうが・・・。
誰に対しても、「お茶でもどうぞ」と勧めたい。