織田信長は最も人気のある戦国武将の一人である。

 天下統一まであと一歩のところで、家臣の明智光秀に攻められ、自害して果てた。

 

 明智光秀の謀反がなければ、織田信長は天下の覇者となっていた。

 どうして、本能寺の変は起きたのか?

 諸説あるが、いまだに謎である。

 

 次のエッセイは、文書の作成日は2021年1月19日なので、この日に書いたものと思う。

この機会に? この機会?という紹介は?だが、ご紹介したい。

 

 

 本能寺の変は、どうして起きたのか?

 その謎を解き明かす重要な手紙が見つかった。

 明智光秀は室町幕府再興を期していた。反信長派の武将に宛てた手紙でその事実が明らかになったという。

 

 以前、あるテレビ番組で、本能寺の変の直前、長宗我部元親が光秀の重臣斉藤利三に宛てた手紙が発見され、元親は信長に恭順の意を示していたことが明らかになった。

 実は、この手紙は光秀の手元には届かなかった。

 光秀は信長と元親が衝突することは避けられないと判断し、信長の先手を打って攻めたのだという。

 では、なぜ信長を攻める必要があったのか。

 元親の正室は斉藤利三の妹。つまり、光秀にとっては元親は重要な人物であり、信長が攻める相手とはしたくない。だから、光秀は元親は徹底抗戦の構えと判断し、信長を討ったのだ。

 

 

 しかし、これらは真実だろうか。いずれも、光秀自身のためではなく、他人のために、信長を討っている。

 信長を討った後、どのような動きになるのか当然予想できたはずだ。勝算がないのに、信長を討ったとは思えない。

 光秀は信長を討った後、細川藤孝や筒井順慶らに味方になるよう誘っている。

 しかし、いずれも断られ、そうしている間に、秀吉に討たれてしまった。

 

 義理を重んじる人だったとは思うが、主君を討てば、世間がどう思うかは当然考えたはずだ。

 光秀は六二歳と高齢だった。引退してもおかしくはないし、野心がそこまであったとは思えない。何かを守るために、信長を討った。その守るものとは何か。

 

 光秀は家族を大切にした人だったという。

 私は家族を守るため、あるいは領民を守るため、信長を討ったのではないかと思う。まったく根拠はない。思いつきだ。

 光秀の人となりに思いを馳せ、本能寺の変を見つめると、別の真実が想像できると思うが、いかがだろうか。