こんな見方も...

こんな見方も...

「主義」に留まらない民主政治を、「民衆主権」を

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G20会合で、「日本は中国事情で孤立」とアメリカの大手経済紙などが報じている。直近の金融市場混乱時における中国当局の対応に対し、日本は名指しで批判的な発言をしていたらしい。

 

仲良しクラブのようなG20財務会合の場で、一国が単独で、他国を名指しで批判することは稀である。日本が孤立してまで、中国批判を駆り立てるものとは一体何だろうか。

 

一つ言えることは、各国政府は、自らの政策の失敗に対する自国民の批判を避けようと他国を非難する傾向にある。逆に言えば、他国非難の多い国ほど、多くの失敗を抱えているということかもしれない。

 

そう言えば、比較的国内世論が安定していたバブル終焉までは、日本が国際社会の場で他国を名指しで批判することなどなかった。世界で日本は「誠実」な国と見られていた。最近では日本を誠実と扱う国はアメリカだけになってしまったようだ。

 

いわゆる「同盟関係」には、おだてられて警戒心を抱く国と、おだてられて金を出す国の二つのタイプが存在するのかもしれない。

 

Bloomberg: Japan Isolated on China as G-20 Embraces Zhou's Yuan Plan

 

 

中国やロシアは、西側との協調共存の道を模索し続けてきた。IMFや世銀、アジア開銀等に変化と改革を求めてきた。しかし長年、日米を筆頭に西側は、中ロとの協調体制を拒み続けている。

 

オバマ政権や、日本の前政権(民主)は協調を促し、そのような対立を避けたいと望んだ。しかし、日米には、その対立を必要とする強力な権益が国家運営に深く携わっている実情がある。これに「変更」を加えることは容易ではない。

 

既存の世界秩序へ食い込むことの難しさが、中国やBRICS諸国の結束を強化させ、AIIBや独自国際金融決済システム、上海協力機構等の創設を促した。

 

これまでロシアは、日本の「地域回帰」を試みようとラブコールを送ってきた。しかしここへきて、地球の裏の大国に寄り添う姿勢を強化する日本を前に、「ロシアから込められた愛」がついに消えた印象がある。言われていた、互いを自国に招く形での日ロ首脳会談の実現性は、なくなったと見るべきではないか。

 

前回の金融危機の際は、2007年夏に米住宅バブルが崩壊し、その後一年以上かけて市場の大暴落を引き起こした。現在の高ボラティリティな市場が、このまま落ち着くことはなさそうである。

 

G7が揃って「中銀カード」を使い切ろうとしている中、次に危機が訪れれば、それは暴落ではなく崩壊となる。そしてそこでの勝者が、新時代の秩序を築いていく。

 

対立から生まれるものより、協調から生まれるものの方が、国民の利するものは遥かに大きい。21世紀、次世代に残したいのは対立の痕跡ではなく、協調の賜物であると、皆が自覚すべきである。

 

 

途上国通貨の下落が既定路線と見なされれば、例によってG7の金融プレーヤー、ヘッジファンド等が売りを仕掛けに出る。結果、これらの通貨はさらに下落する。

 

しかし途上国通貨の下落は、「通貨防衛」の名目で米国債売りを伴う。ここに今回の、中国の真の狙いがあるのではないか。

 

経済学者は、現在の状況と90年代のアジア危機との違いを各国の外貨準備量で語るが、実態は中国との関係、とりわけ人民元との関係のほうが重要な意味がある。

 

G7プレーヤーが途上国通貨を売り仕掛ける中、途上国は「決済通貨およびペッグもと」をドルから人民元へと移行する。これらの通貨は急上昇し、市場をカジノ化してきたG7プレーヤーは壊滅状態に陥る。

 

中国の米国債保有量の減少を、G7経済は警鐘と捉えるべきである。米国経済最大の下支えは、準備通貨の特権である「無限の借金」に他ならない。ひと度、世界がこれをやめようとなれば、全てが逆回転する。

 

中国が号令をかけるわけではないが、最大保有国が売りを開始することで世界が呼応し、米国債売りが加速する可能性がある。

 

これを食い止めなければ、世界大戦にも等しいパラダイム転換へ向かう。まさに経済戦争とはこういものではないだろうか。

 

当然、戦後秩序を保持したい日米はこれを容認できない。よって現状、「中国経済の安定成長」を支持する側にあると言える。今回のG20では、これに向けた何らかの共同声明が出されるはずである。

 

日本は国内向けに、より「批判色」の強い報告となるだろうか。仮にそうであれば、それは「牽制」などではなく、危機感を表していると捉えるべきである。そして一国の危機感は、その後の政策に変化をもたらす。近く、何らかのドラスティックな変化が見られるはずである。

 

 

アベノミクス以降、日本円は、70円台後半から125円台にまで下落した。実に、「50%超」の切下がり幅である。逆に、米ドルはこれ以前、対ユーロで約20%切り下がり、対円では危機前の高値から一時40%以上も切り下がった。

 

対する人民元は一貫して上昇してきた。対ドルで、過去10年間に25%ほど上昇した後に今回切下げられ、1ドル6.2元が6.4元程になったに過ぎない。率にしてわずか3~4%のことである。

 

米国は、「自国経済の回復が世界経済に貢献する」と表し、世界の準備通貨国でありながら、なり振り構わない異例な規模の量的緩和を行い、通貨価値を切下げた。日本は、「アメリカがしたのだから」と追随、先進国史上最大規模の通貨切下げにいたっている。

 

しかし今回の人民元切下げは、日米の通貨価値切下げとは全く次元の異なる効果をもたらす。その数値以上に、中国当局は後に世界に広がる「波及効果」を狙った可能性がある。

 

中国は、既に世界最大の通商国および、貿易相手国の地位を奪還している。それゆえ、他国通貨も、人民元の下落に呼応せざるを得なくなることを知っている。それを計算に入れ、わずか数パーセントでしかない切下げ率を設定したのではないか。

 

影響がBRICSや、途上国へと波及することで、G7通貨にかかる負荷が限界に近づいていく。これは、既に大幅な通貨切下げが先行しているG7にとって、巻き返すことのできない負荷となる。

 

 

国内の報道では、「中国が、世界経済を混乱させている」といった論調が多く、中国当局が行った市場対応への批判も今のところやむ気配がない。中国景気の減速は、データと共にもう何年も前から言われ続けていて、今になって分かったことではないにもかかわらずである。

 

そもそも、中国当局は、金融市場の混乱に対して真剣に対処しようとしているのだろうか。

 

先の金融危機の際(2008年)、中国は異例の速さで「4兆元=75兆円(本日レート)」の財政出動、経済対策を行うと世界に向けて発した。

 

当時、市場関係者なら誰もが、「これで世界は救われる」と感じたはずである。事実、中国は世界経済のエンジンと呼ばれるようになり、世界の金融市場は底割れを防ぐことができた。

 

しかしその後、それだけの出費を伴って世界経済、世界の金融市場の下支えに貢献しながら、それが正しい評価を受けていない。そればかりか、日本国内ではその負の側面(過剰投資等)ばかりが報道されている。

 

 

年前半、EUも量的緩和始めたことで、G7は足並みそろえて株価中心の経済政策となった。緩和マネーの流入で、必ずしも実態を反映するわけではないマネーゲームが、G7経済の牽引役を務めることになる。

 

ひと度、金融市場が混乱すると、G7諸国ではそれが経済の先行不安に直結する。危機にいたれば、個人の金融資産は激減し、年金運用すら不安視され、自宅を始めとする不動産価値も下落する。

 

対してBRICSを始めとする途上国は、鉄道や高速道路を含む、社会インフラ等の実需があり、実利的な成長余地が残されている。彼らは金融危機後も、「株価」に頼った経済運営から距離を置いてきた。

 

市場の混乱が続けば、世界中どの国においても悪影響を避けられないが、他の国はG7諸国ほど、株価に「依存」した経済構造をもっていない。

 

市場の混乱が始まって以降、日本国内では、嘆き悲しむ中国人個人投資家の様子が日々報道されている。誰が見ても、「いま、中国は大変だ」という印象を受けるが、実際には、中国を始めとするBRICS等の途上国では、株価下落によるダメージは軽微である。

 

時折言われるように、第三世界大戦なるものがあるとすれば、それは武力ではなく、「サイバー戦争や、経済戦争」であり、それはもう始まっているとされる。

 

もしそうであれば、株価頼みのG7諸国にとって、市場の混乱は致命傷になりかねない。それは、中国を始めとする途上国にとり、相対的に有利となる環境を提供する。

 

 

冷戦期の構造から、日本では「民主主義vs共産主義」の構図で語られがちだが、これは本来、「市場経済主義vs共産主義」と見るべきである。

 

ヨーロッパでは、ほぼすべての国が社会主義を掲げている。いかに福祉政策を充実させるかが、政治の大きな課題であり、彼ら国家間の「競争項目」でもある。

 

社会主義は、「社会保障充実主義」である。日本人が考える共産主義とは全く異なる。では「社会主義の反対は」と言えば、世界共通の定義はないものの、一般的には「新自由主義」や「完全競争主義」、日米のような「勝者が総取り、究極の弱肉強食型社会」を指す。

 

「資本主義」は、時にこれらの総称として使われる。よって、フランス人やスペイン人に自国が資本主義かと尋ねれば、大抵は、「その要素は当然あるが、社会主義に間違いない」と、自信を持って答える。

 

また日本では、中国やベトナムのような「共産党」による一党支配国を、暗に「共産国」と捉える傾向にある。彼らは過去の時点で共産主義を取り入れたものの、既にその多くで失敗を認め、「市場経済」を復活させている。

 

「資本主義」の観点から見れば、中国などは、日本よりも遥かにその精神が庶民レベルに根付いている。これは世界との深く長い関係、通商国としての歴史を物語る。

 

両国に対するそのような見方は、欧米社会では浸透しているものの、日本では意図してか、されずしてか、未だ中国は「共産国」、ベトナムは「なんだっけ?」といった具合である。

 

さらにインドでは、未だ階級が「制度」としてが存在する(差別は禁じられている)が、日本社会はそのインドを「民主国」と扱う。

 

隣国、周辺国、その他近隣諸国を理解することが国際化の原点だが、日本の場合、地球の裏側にある大国に寄り添うことを「国際化」と考えてはいないだろうか。

 

 

日本社会では、とかく「社会主義と共産主義」を混同して捉えがちである。また、「民主主義vs共産主義」の構図で語られることも多い。これは日本語の訳、日本の「民主主義」の始まりに由来する部分が大きい。

 

概して他の先進国では、市民が自らの手で自由と民主性を勝ち取ったのに対し、日本の民主主義は、一部のメンバーによって外から人工的に持ち込まれた。よって「制度」以前に、「主義」として取り入れられたことで、デモクラシーは「主義」のまま育成した。

 

デモクラシーの語源は、古代ギリシャ語のデモクラティア。デモス(民衆)と、クラティア(主権)を合わせた造語とのこと。

 

-ist/-ism」は「主義」と訳せるが、「主権の所在」、または「制度」を表すデモクラシーを「主義」と曖昧に訳すのは不自然である。仮に日本より先に、中国でデモクラシーが始まっていたなら、「民衆主権」とでも訳されていただろうか。

 

 

脱原発を進めるドイツが、廃炉作業完了までの費用負担に、「責任」を課す法改正を準備中との報道。金銭的な受益者が、金銭的な責任負うという、ごく当たり前のことのように思える。

 

社会主義性の強いヨーロッパにおいて、ドイツは比較的資本主義な国とされている。自由と責任、権利と義務を個人、企業の単位で明確に扱うことは、資本主義の大前提である。

 

原発に限ったことではないが、先進世界ではアメリカに続き、日本は最も資本主義色の強い国。にもかかわず、受益者と責任の関係が曖昧な社会である。

 

廃炉はもとより、事故の責任についても、受益者ではなく国民全体に振り向けられている。約60億円もの損失を出した新国立競技場の建設事業についても同様、責任者が、「責任追及と原因究明をすることはしない」とまで言い出している。

 

 

ほとんどの自治体が発効するにいたった「プレミアム商品券」。事実上、富裕層に与えられた「政府紙幣」である。

 

最寄りの役所に1万円の日銀券を持って行くと、12千円の「○○市紙幣」と交換してくれる。その自治体内でのみの利用となるが、事実上、お金を1.2倍増にしてくれる魔法の政策である。

 

もちろんそれには大きなカラクリがあり、まずは、その「12千円札」にはお釣りが出ない。よって12,000円以上のまとめ買いができる人、または「ゆとり」のある人にしか意味がない。

 

次に、当然、その20%の上乗せ分は納税者負担であり、一旦は日本政府の借金となった上、いずれ我々または、我々の次の世代が清算しなくてはならない。一体、どのような理念の下、現政権はこのような納税者負担を強いることにしたのだろうか。

 

前世紀、日本を除く先進世界では、政治の二極分化が起こった。それまで複数あった有力な政党が淘汰された結果、改革派と保守派に二極分化した。

 

改革派またはリベラルは、いわゆるソーシャリスト(日本語の「社会主義」は誤った解釈も含む)な社会を目指す。「健全な格差」を否定するものではないが、弱者を皆で助けようという精神。西ヨーロッパ諸国や、中露を始めとするユーラシア大陸の多くの国々は、このような政策、精神を世紀をまたいで育んできた。

 

これに真っ向から対立するのが保守派。すなわち親の代や、それ以前の代から継承される富、権力は保護されてしかるべきという理念を持っている。

 

彼らは、そのスタートラインの差を問うことなく、競争を「自由」と位置づけ、そこで生まれた強者が弱者にほどこしを与えるという国家像を描く。

 

多くの場合、この「強者」には、その能力や人格が問われることはない。それらは、世代をまたいで固定化された富や権力よって測られるからである。これまでのアメリカや日本は、そうした理念の下、国家が形成が進んだと言える。「自由と平等」の解釈が、大陸のそれとは全く異なる次元にある。

 

「自由」そのものは誰もが愛するところだが、その自由は当然、フェアさを伴わなくてはならない。出自の差で最終学歴が決まったり、親、親族の後光によって、最初から競争で有利な立場にあっては、自由競争とは呼べない。

 

貧困化が加速している日本において、富裕層の消費(または浪費)のために、全納税者に負担を強いる経済対策など常軌を逸している。平等の精神に真っ向から対立する政策である。

 

昨今、日本政府、メディアが途上国を前に、自国の有利性ばかりを自国民に向けて発する姿勢が目立つ。これは日本社会の弱者に向け、「大丈夫、まだあなたより下がいる」と言わんばかりだ。そんなことで政策批判をかわせるほど、現代日本の一般市民は愚かではない。