九州王朝説
聞いたことがあると思いますが古代縄文弥生時代、九州に王朝があり、出雲ではなく、北九州に大国主が統治し、国譲りも北九州だったとする説があります。
個人的には基本的に考えが違うのですが、違うからと言って否定や受け入れないというのではなく、どのような考察なのか?知ることが重要だと思います。
いかんせん縄文から奈良時代にかけては歴史的資料が少なく仮説や妄想のし放題です。
そこがまた楽しいのですが…
そこで九州王朝説を調べていくと最近YouTubeの検索で登場する
百嶋神社考古学研究なるものを知りました。
HPも見ましたがなかなかのマニアックです。
おそらく学校の歴史や神話を間に受けてる人にはなにをバカなことをと考えると思います。
学校の古代史はほぼヤマト王権からしか教えません。
その歴史教育さえ藤原不比等の歴史の改竄であることは古代史を調べる人には常識でしょう。
この百嶋神社考古学とは百嶋氏という方が長年神社の御祭神などを研究し日本人のルーツなどを調べていましたが既に亡くなっておりました。
残念ながら百嶋氏の書籍は無いようです。
しかし、お仲間が引き続き研究をしておりブログやYouTubeで配信しています。
この百嶋神社考古学は九州王朝説が前提のようで神さまの系図を見てもなるほど!と思う考察もあれば、そこそうなるの?と思うのもあります。
また、YouTubeの1〜4までの視聴ですが興味深いです。
大国主は出雲ではなく北九州宗像を治めていた!?
息子の建御名方たけみなかたは信州諏訪ではなく鹿児島で南方みなかたに居た!?
大変興味深い考察ですね。
記紀の神話はほぼ(90%)創作なのは間違いないと思いますが大国主が出雲ではなく北九州宗像とする点はなかなか理解しづらいです。
個人的には出雲口伝をある程度ベースに考察しているので縄文期の北九州王朝説は徐福ら物部氏の祖ら渡来系が入る縄文後期から弥生時代なら間違いなく九州王朝というか渡来系国家があったと思います。
また、朝鮮半島との交流は地続き説もありますが否定的に見ています。
北九州からの船の往来も玄界灘を出て北東に流されて着かないので長崎県五島列島から初夏の南風に流されて半島に着いた。
晩秋になり北よりの風にのり交易品を持ち帰り着いたのが出雲辺りでしょう。
その交易品の分配を受け取る為、連合国の長が出雲に来たことで出雲に神が集まる神在月と言われたと思います。
百嶋神社考古学については書籍が無いのでYouTubeのみの事なので間違えている可能性がありますが、大国主が出雲ではなく宗像を治めていたとする考察の根拠はどのようなモノなのかが興味があります。
否定ではなく可能性はあるかなと??
弥生期に入るまでの交易拠点は長崎五島列島で百嶋神社考古学でも五島や佐賀は重要な場所でした。
あくまで仮説ですが北九州に大国主が治めていたとは大国主は役職名であり、出雲の大名持(大国主)も役職名なので国譲り後、天穂日以降(国譲り後の弥生期)、宗像と婚姻関係を結んだ出雲系一族ではないのか?
後の物部氏の可能性のあると今のところ考察しています。
出雲の国譲りは徐福(ツヌガアラシト.天日槍.スサノオ.天火明)と天穂日の大名持(大国主)、少名彦(事代主)の暗殺もしくは物部、海部氏などのスサノオ庶流の簒奪だと考察しています。
どちらにしても弥生期の北九州は渡来系の豪族が乱立していたのでしょう。
また、YouTubeでは建御名方は物部氏に追い出された?ようなことでしたが、その辺りも難解かと…
建御名方が諏訪ではなく北九州にいたなら物部との関係性がわからなくなります。
信州諏訪大社は建御名方の子孫の大祝が生き神さまとし、祭祀は洩矢氏(もりや)で御神体山は守屋山で守屋山の麓には物部神社⛩️もあります。
物部氏が建御名方を追い出したとはなかなか考察しづらいかなと…
しかし、日本海側の物部系神社が外物部系(長髄彦)であれば同族となるので理解出来ます。
それと、建御名方は龍蛇神です。
それがミシャクジ信仰やアラハバキ信仰と繋がると考察していますが南方には龍蛇信仰などがあるのか??
その辺りや大国主が北九州にたどり着いた経緯を今後わかったらおもしろくなりそうです!!
百嶋神社考古学研究会YouTubeの視聴を継続しますがブログは不定期になると思います。
最後に個人的には九州には渡来系弥生人による倭国連合があり、物部の東征により縄文日高見国が滅ぼされたという考察は同じのようだと思うので今後も楽しみにしています。
古代史は奈良だけではないのよ!!🤭