子どもにどこまで情報を与えるべきか、という話題は、折に触れて持ち上がる。

とりわけ、インターネットやSNSに関しては、その扱いをめぐる議論が絶えない。

 

先日、妻と子どもとともに小児科を受診した。

待合室では、スマートフォンを手にした子どもたちが、画面に釘付けになっている。

多くは動画を見ているようで、静かな空間のなかに、わずかな電子音だけが漂っていた。

 

私はよく風邪をひく子どもだった。

しばしば地元の小児科に通った記憶がある。

そこでは、風邪でありながらも元気に騒ぐ子どもがいて、あるいは絵本に没頭する子どももいた。

そうして私はといえば、院内の掲示物や広告を眺めたり、所在なく眠ったりしていた。

 

現代において、携帯端末はもはや生活の一部である。

SNSもまた同様で、気づけば手元の画面へと視線が落ちている。

そこには、膨大な情報が絶えず流れ込んでいる。

 

玉石混淆、魚目混珠。言説のあいだに、魑魅魍魎のごときものが紛れ込む。

 

 

有害な情報に触れさせないこと。

不確かな言説から遠ざけること。

そうした配慮が必要であることに、異論はないだろう。

その中で、どこまでを「触れさせない」ことで守るのか、その線引きには曖昧さが残る。

 

情報は、刃物や薬のように形を持たない。

それゆえに、その危険は見えにくく、また際限がない。

完全に排除することは、おそらく不可能である。

 

それでもなお、私たちは「見せない」という選択を取りがちである。

危険なものを遠ざけることで、安全を確保しようとする。

 

この構図は、これまで見てきたものと大きくは変わらない。

逸脱を防ぎ、一定の範囲の中で振る舞わせること。

それは確かに、短期的には有効である。

 

しかし、ここで一度立ち止まる。

情報に触れないままでいることは、果たして安全と言えるのだろうか。

 

誤った情報に出会ったとき、それを疑う術を持たないこと。

強い言葉や極端な意見に触れたとき、それをそのまま受け取ってしまうこと。

そうした状態には、別のかたちでの危うさが潜んでいるのではないだろうか。

 

当然、すべてを無防備にさらすべきだと言いたいのではない。

だが、危険を避けることと、危険に対処する力を持つことは、やはり同じではない。

 

情報に触れるとは、単に知識を得ることではなく、その真偽や強度を測り、自らの中で位置づける営みでもある。

その過程を経ずに、安全だけを確保しようとするならば、子どもたちは何を基準に情報を扱えば良いのだろうか。

 

触れさせないことと、扱えないこと。

この二つは、どこかでつながってはいないだろうか。

 

子どもを守るということが、単に危険を遠ざけることにとどまるのか。

それとも、危険に出会ったときにどう向き合うかを含むのか。

 

その境界は、思いのほか曖昧である。