父親役について 1 | 徒然な日々

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去年の10月から年を跨いで取り組んできた「父親になる作業」が、ついに先日終わりを告げた。

いや、誤解がないように言っておくが、ここで言う作業とはあくまで役作りの話である。決して子作りに励んでいたわけではない(笑)



12月の公演で演じた役は、最愛の妻を出産直後に亡くし、そのショックから我が子である娘の前から突然姿を消した男である。

そんな父親が実に15年以上の歳月を経て、ある日突然娘に会いにくるという話。

そんな、人情劇の中ではさもありなんと思われるストーリー展開の作品でありながら、反面その役の内面性を具現化させる演者側の立場にとって、そのナイーブな精神状態を構築することは至難の技だった。

それはそうだろう?

これまでの人生の中で父親になったことのない私が、どうして15年以上も放ったらかしにした娘と再会した親の気持ちなど理解できると言うのだ?

以前、このブログ記事にも記した「……」という台詞に込められた思いを、一体どのように彷彿したらよいのか?

娘に対する想いを稽古場で口にするたび、その薄っぺらな言葉に己で驚く。そしてそんな不甲斐ない姿を俯瞰的な目線で想像しては身悶えする。そんな日々が続いた。



次に、年が明けて稽古に合流した芝居は、これまた複雑な事情を抱えて我が娘への愛情を失った父親の役。

いや、あのお父さんは決して愛情を失ったわけではないのだ。

人並みに娘に対する愛情はあるのだが、どこかその置き場を見失ってしまって、実際のところ自分でもどうしたらよいか分からなくなってしまっている人。

この人物は実在するので多くの言及は避ける。ただ叩き台として渡された12頁ほどの短編台本から読み取るだけの印象で言えば、同性として非常に苛つく男性であったことは間違いない。

体内に滞留する人としての弱さを己で直視できない。肝心な部分に触れることを無意識に避ける。だから外部に対して傍若無人に振る舞う。身近にある娯楽で憂さ晴らしをする。

まるで中高時代にクラスメートだった不良そのもの。あの連中をそのまま大人にしたような人物だが、一点だけフォローのように付け加えるとすれば、彼らはどいつもこいつも友人としては非常に「いい奴」だった


まあ、思いつく限り走り書きしてみたところで、パターンや設定が違えどこれだけ複雑怪奇な内面性を抱えた2人の「お父さん」を、娘の父親になったことのない自身が一体どのように、どんなルートを辿って具現化したらよいというのか?

双方ともに、稽古場では極めて不機嫌で口数の少ない日々。そんな自身を客観的に見つめては溜め息をつく4カ月あまりだった。


思えば、タバコと酒の量は増える一方だったな。タバコは一日3箱。酒は350ミリ缶のウーロンハイが一日10缶。

こんな量を一日も欠かすことなく消費していれば、体調を悪くするのも当然だ。

おかげでこの数日、変な咳が止まりません(笑)



俳優は役の内面性をより深く探求し、その人物の陰と陽の両極端を獲得しなければならない。

これはかつての師に教わった言葉だが、その言葉はずっと私の中に残っている。

一見弱い人物がそこに居るようで、反面どんな弱者も刹那的に覗かせる強さを持っている。

どんな失望に打ちひしがれた人間でも、浅い夢の中で一刹那の希望を垣間見る。その一刹那を攻略した時、初めてその役は立体となる。


善人だからおたふく顔と誠実さをアピールした口調で。


悪人だからゲスい感じの表情と振る舞いで。


そんなパッケージに捉われた役作りでは、その立体の肝となる奥行きを得ることはできない。

だからどんなに本番まで時間がなくとも最終稽古を終えるギリギリまで踏み留まる選択をする。

また、劇場や芝居小屋に入ってからも楽日まで修正を続け、納得しない箇所があれば弄り続ける。

公演の大小などは関係なく、僕と演じる役だけの結界を張って、その中で対話を重ねる。そんなイメージの作業を繰り返す。


自身に課すこれらの荒行が果たして正しいかどうかは分からない。しかし役のことを思えば、私はこの戦い方こそが、役に報いる唯一の方法論だと信じている。

どんな小さな役もたまたま偶然自身の元に来てくれた存在である。

その有り難い存在に対し、ただ精巧に作り上げられた張りぼての「実体」を当てがうような演技で返しては、千穐楽の日に彼らを弔うことができない。なぜなら、そんな役作りをするだけなら、彼らは最初から生きていなかったのと同然だからである。

さて今回、わかりきらないままに命を吹き込んだ二人の「父親」に、その想いは届いていただろうか。(続く)