「まったくなんというテーマだろう」
キングスレイ・エイミスは、酒飲みの聖典「酒について」の‘二日酔い’の章の冒頭にそう書いている。
二日酔いと坐禅。
われながら情けなく、恥ずかしいテーマで、西嶋老師はもちろん会下の皆さんにも話せない。しかしリアルな話だ。
世の中には、坐禅を好み、坐禅できなくなるのが嫌でお酒をやめたという立派な方がいる。
どだい仏教の最も基本的な戒律には「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」が定められている。
西嶋老師はどうであられたか。
サラリーマン生活を全うされた方だし、若いころは大酒を飲んだともおっしゃっていた。
しかし、ある時期からほとんどお酒を口にしなくなったそうだ。
ただ、酒を飲んだ夜も坐禅したほうがいいですか、という質問(私がしたのではありません)に対しては、記録にある昔の問答も引用されながら、
『それはそのほうがいいです』
とおっしゃった。
なので、酒に酔ったあとも、できる限り眠る前に坐禅をしようと心掛けている。
心掛けてはいるものの、沢山飲んだ夜は坐禅を始めても坐蒲からずりおちたり、坐蒲を用意する前に眠ってしまうこともある。情け無し。
そういうときは、寝心地も良くなくて、夜中に目が覚めて、改めて坐ることもある。
お酒を飲んだ翌朝は、大なり小なり心身に影響=二日酔いが残る。
エイミスは「酒について」で、
二日酔いは歳を重ねるに従って、肉体的な苦痛よりも精神的な苦痛が増してくる、
という意味のことを書いている。
これはまさに真実で、実感でいうと肉体的なダメージは弱まるわけではなく、その上に精神的な苦痛が付け加えられる、のしかかってくるかかる感じ。
主成分は‘後悔’である。
歳をとる、ということは、何事であれ‘やり直しがきく’と期待できる残り年数が少なくなることでもあるので、悔恨のエッジも立ってくる。
そうした朝も、坐禅をする。
二日酔いの坐禅は、しみじみ辛い。
辛いのではあるが、今の私の場合、非常に救われもする。
なんとか結跏趺坐を組んで、背筋を起てて坐る。
酒のダメージはしっかりあるのだが、それはそのままで(どうしようもないので)で、目の前の一点を眺めながら、坐り続ける。
ほどなく、身体が落ち着いてくる。
あれやこれや、そうあるようにしかないところに収まっていく。
これほど愚かな自分にこれほどありがたいものが与えられているという、幸福感も湧く。
時間が来て(スマホのタイマーが鳴って)、合掌し、足をほどく。
馬鹿は馬鹿なまま、よっこいしょ、と立ち上がり、1日を始められるのである。