地方議会に想ふ | 多治見市議会議員 吉田企貴(もとたか)のブログ

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閑余の戯れに書き連ねますが、議会とは何だろうと、ふと考えました。
 
突き詰めて言えば、それは集団の意思決定におけるシステムの一つなんだろうと思います。先取的に申し上げれば、このシステムは選ばれた個人による判断ではなく、多様に存在する集団それぞれの代表者における闘争に依拠していると考えられます。
 
 我々が立脚する政治制度は、多くの場合、民主主義と呼ばれます。しかしながら、この民主主義という用語は極めて多義的な要素を含みます。元来、政治制度に対して「主義」という言葉をあてがうことは適切ではなく、むしろ思想的な側面を強調しすぎる嫌いがあると言えるでしょう。

 通常、政治制度に対しては「○○制」、もしくは「○○政」という呼称を用います。独裁制とは言いますが、独裁主義とは言わないのと同じことです。ですから、本来、民主主義ではなく、民主政、もしくは民主制と称するのが適切なのだろうと思います。しかしながら、我が国の政治制度の歴史的な成り立ちや、イデオロギーを中心とした闘争の歴史から、民主主義と言う極めて思想的な色合いの強い用語が定着するに至ったものと考えられます。
 
 さて、民主政(≒民主主義)といっても、その形態は様々です。有名なものとして大統領制や、議院内閣制といったものが挙げられますが、日本における地方議会は二元代表制と呼ばれるシステムを採用しています。この二元代表制はアメリカにおける大統領制によく似た制度であり、市長と議会とをそれぞれ別々の選挙で選び、それぞれに強い権限を与えています。ともに市民から選ばれた代表同士が互いに牽制しあうことで行政の暴走を予防し、もって市民の福利増進に寄与せしめんとすることを企図しています。
 
 政治制度といった観点から言えば、二元代表制には二つの異なった制度が併存するシステムであるといえます。すなわち、市長と議会とは、権能も歴史的な経緯も異なる政治制度であるということです。

 民主制、なかでも間接民主制は統治の権限(統治権)が統治される側の人間(被統治者)の信託に由来するという点に特徴を持ちます。そして、統治権を一人の代表者に対して信託する制度を独裁制と呼び、複数人の合議にゆだねる制度を共和制と言うわけです。ですから、独裁制と聞くと非民主的であるといった印象を持たれる方が多いと思いますが、その権力が被統治者の信託に由来する以上は民主制の一形態であると言えるわけです。よって国民の信託に依らない独裁者(金正恩、サダム・フセイン等)は、本来の意味での独裁者ではなく、むしろ専制君主と呼ぶほうがふさわしいでしょう。
 
 この意味で、二元代表制における市長は民主独裁制の一形態であり、議会は民主共和制を採用した制度であるわけです。これを踏まえたとき、今一度冒頭の一文を思い出していただきたいのですが、地方議会とは選ばれた個人による判断(民主独裁制)ではなく、多様に存在する集団それぞれの代表者における闘争(民主共和制)に依拠しているシステムであると言えます。

 さて、ここで考えていただきたいことは二つあります。一つは、市長という制度はどれだけ民意を吸収する手法(アンケート、タウンミーティング等)を採用しても、あくまで独裁制の一形態であるということです。市民の声によく耳を傾ける市長だったとしても、集団の意思決定は最終的に市長一人が行うことになります。もう一つは、議会における意思決定は合議制を採用しているものの、最終的には多数決を用いる以上、集団間の闘争に依拠せざるをえないという点です。

 議員は選挙で選ばれる以上、誰かの意見を反映する存在に他なりません。地方議会の場合は大選挙区制(同一の選挙区から全員ないし複数人が選出される制度)を採用しているため、一定程度の規模の集団であれば代表を選出することが可能です。その集団は必ずしも顕在化されているわけではないでしょうし、議員自身も自らの支持母体を正確に把握しているわけではありません。しかしながら、選挙区内に存在する集団(地域、団体、業界、若者への期待、女性への期待等)の存在なしに議員は当選できないのは自明の理であり、選挙とは有権者(需要)と立候補者(供給)とのバランスによって構成が左右されるということが言えます。

 例えば、若者が議員になろうとした場合、立候補者の多くが若い世代だった場合、「若者」というカテゴリーだけで当選を果たすことは難しいでしょう。ところが、一定規模の自治体で若い世代の立候補者が一人もいなければ、当選確率は相当程度上がります。これは「女性」や「地域」といったカテゴリーであっても同様のことが言えるでしょう。また、地域を代表する場合、議員のキャラクターは必然的にその地域の住民構成に影響を受けます。保守的な地域からはアウトサイダー(いわゆるよそ者)や若者が立候補しづらいのに対して、新興地の場合は地域の推薦があったら当選できるといったことは少ないでしょう。

 このように、地方議会の場合、特に「議会は市民の縮図である」ということが言えると思います。これは言い換えると、選挙区内の需要と供給のバランスによって議会構成は決定される(個々の議員の能力だけでは決まらない)ということです。

 ここに議会と市長との決定過程における最大の違いが存在すると考えます。すなわち、すでに述べたように市長はどれだけ民意を吸収しようとも、その決定は市長個人(統治者)の意思に依拠します。これに対して議会は市民社会(被統治者)における集団間の需給バランスを反映し、その決定は議員間の闘争(対立、調整、合意)によって自動的に調整が図られます。言ってみれば、議会の持つ調整機能はあたかも経済における「神の見えざる手」のごとしです。

 集団の意思決定を選ばれた「個人の意思」に委ねるか、集団内に多様に存在する集団それぞれの代表者による闘争という「システム」に依拠するか、ここに市長(民主独裁制)と議会(民主共和制)とにおける違いが存在するのだろうと考えます。

 以上を踏まえたとき、昨今の議会改革と呼ばれる潮流の方向性は果たしてどうなのだろうと考えます。これはあくまで主観的な見立てですが、いわゆる議会改革と言うものが目指すところは「開かれた議会」というキーワードに集約されるように思います。この「開かれた議会」と言うものが指し示すところが何なのかはイマイチ不明ですが、これは人によって意味するところが微妙に異なってくるからだろうと思います。

 いずれにせよ、議会が市民にとってアクセスしやすい存在になることは悪いことではないでしょう。しかしながら、議会改革なるものを進めようとするとき、多くの場合、会派等に代表される集団の意見よりも、個人個人の意見が反映しやすいような制度を目指す傾向があるように思います。これはおそらく、会派や政党といった集団そのものがいわゆる「シガラミ」の一種であると観られているからでしょう。

 確かに、会派等の集団として意思を統一しようと考えたとき、本来主張すべきことが主張できなかったり、政治的信条を時には曲げなければならないこともあると思います。ところが、先に述べた通り、議会とは市民社会における諸集団の多様な意思を議員間の闘争(対立、調整、合意)によって調整するシステムであり、それは多数決という仕組みによって規定されます。その性格上、過半数の合意を得なければ集団の意思決定とはならず、自らの属する集団の意思を全体の意思として顕現させるためには、少なくとも過半数の議員の同意が必要であり、その過程では妥協を求められるのは当然だろうと思います。その意味で、会派や政党といった集団は、議会という政治制度においては不可欠な存在であるものと言えるでしょう。

地方自治法は市長と議会とを共に選出する二元代表制を採用しています。この制度においては、議会の過半数の同意がなければ市長は何もすることができません。ただし、議員一人一人は市長の数十分の一の権限しか与えられていません(多治見市の場合は二十四分の一)。だからこそ、過半数の同意を得るための仕組みとして会派制度が重要となるわけです。そして、民主独裁制と民主共和制が相克を果たすことで初めて健全に機能するシステムが二元代表制である以上、議会が市民にとって有益であるためには会派制度の充実(会派内議論の活性化、会派の調査・提言能力の強化)が最も重要となってくるはずです。

だからこそ、議会改革が目指すべきところは、本来、会派の機能そのものに向けられるべきなのではないでしょうか。