まず、この言葉を語る上で確認しておかなければならないことが数点。


諸法とはなんぞや?


無我とはなんぞや?


この2点。


まずは「諸法」から


「諸法」とはサルヴァ・ダルマの漢訳語です。

サルヴァは「一切の、総ての、あらゆる」という意味。ダルマは、「ダリ(保持する)」の派生語で、「神が保持するもの」が原義です。

即ち、梵語の「ダルマ」は本来「因縁起」全部を含む概念だと言えます。(「因縁起」は「因=自性有る存在」と「縁=無自性存在」との両者を含む概念)
「ダルマ」は「法」と漢訳されて来ました。しかし、仏教の「ダルマ(法)」は、「法律」などの概念ではなく、仏教の「特殊専門概念」です。いわゆる「仏教ジャーゴン」というやつです。
仏教の「ダルマ(法)」は、仏教の「特殊専門概念」としての)「有為法」と「無為法」の両者を含む概念です(正確には違いますが)

「ダルマ」の第一は、物質的に不生ものです(無為法)。
「ダルマ」の第二は、「ニルバーナから一部流出したその力」によって生起した「相対世界の全存在」や相対世界の(因果律などの)「諸法則」です(有為法)

また、宗教真理の教義(世俗諦の一つ)もこれに属します。
それ故、「諸法」は「相対世界」の総ての「存在・物事・理法」と解釈できると思います。

「諸法」と「五蘊」とは何が違うのか?
違いの第一は、「五蘊」が「個我」の内部限定であるのに対して「諸法」は全存在を含む概念であることです。

つまり、「諸法」は「有為法」全部を含むばかりか、それ以上の広い概念です(無為法をも含みます)
違いの第二は、「五蘊」は「無自性存在」ですが、「諸法」は理論としては「自性有る存在」(無為法)を含む概念であること。(しかし、正確には違います。が、ここでは便宜上今の説明でいきます)


つまり、「この世のありとあらゆるもの(諸法)」は無我ということです。


では無我をとは何か?


ここでいう「無我」とは「無自性存在」「自性無き存在」をさします。

「我」とはアートマン(自性存在)つまり真我。無、我が無い(自性が無い。無自性存在)

無自性存在はそれ自体では単独で存在できない、行動できない、活動できない、オーナー性の無いものを射します。

つまり「諸法無我」は「相対世界のありとあらゆるものは自性無き存在、ものである(相対世界の全てのものは縁に依って成り立つオーナ性なき無自性存在)」と言っているのです。

これは「非我」であっても同じ意味になります。

「諸法非我」


通念どおりの「一切のものには我としてとらえられるものはない」とは少し違います。