《五》小さく見えた古城

 

 MF社(モトフランス社)でのプレゼンの後、予想より早くGOサインが出た。製品化までの道のりは厳しかったが、21世紀に入って間もないころその小型エンジンは誕生した。エンハツ(遠州発動機)初のオフセットシリンダー。約70㏄のOHV、シリンダーのオフセット量は10ミリだった。材料調達から完成品検査、出荷まで全てフランス国内で完結。船外機として売り出され欧州の運河をゆく舟の原動力となった。自身が設計に携わったエンジンが、遠いフランスの工場でラインオフしたことに感慨を覚えた。

 

〜6年前〜

 バイク雑誌がトリガーだった。1987年ロードレース世界最高峰、GP500ccが日本・鈴鹿で初開催された。日本の3社のGPマシンが揃った。バイク人気はレースの人気へと広がって青年もレース雑誌を愛読した。山河堂の雑誌はあるバイクメーカー・エンハツの紹介記事に目が止まった。そしてなんと最終ページに「人事部」の電話番号があったのだ。通常広報や宣伝部門の問い合わせ先が掲載されるものだが、エンハツは人事部と掲載されていることに気付き、青年は軽い気持ちでダイヤル

「バイク雑誌を見て電話させて頂きました。」と青年の話を聞いた勘のいい対応者は人事の中途採用担当者の木村氏にすぐに変わり「履歴書を送ってください。」更には「今月末の土曜日に面接に来られますか?」という話だった。

大企業の面接ってこんなに簡単に受験できるものなのと、キツネでも騙されたような感覚であった。

 しかし、創業は明治時代、神戸に本社を構える精密機械製造業の老舗に、4年間務めてきた青年にとってこれこそが大きな転機となるのだった。

遠州の郊外、神戸には体験したことのない猛烈な浜風が頬をなでるなか、面接会場に着いた。ピアノやベアリング工場に囲まれた工場地帯の一角だった。面接官が質問を投げ、応募者の反応や言葉づかいに素性を見るのかと思いきや、違った。あなたは、機械工学でどんな研究や実績がありますか?との面接官の一言に猛然と動きだし、2ストロークの可変式チャンバーを考案した経緯と解説をおもむろに椅子から立ち上がりホワイトボードを埋めたのだ。名付けてバリアブルチャンバーですと語った。青年がバイクへの思いを押さえる事が出来ず、個人的に特許を出願していたのだ。

 いぶかしげな面接官の表情も見たが、青年は続けた。排気の脈動を精査するなかで辿り着いた仕組みです。既に特許も申請してます、と。面接官の表情に変化はなかった。が存在感を印象づけた思いだった。そしてそのわずか三日後、電話が鳴った。

エンハツかの面接結果通知の連絡であった。

「エンハツの木村です。お世話になります。早速ですが、来週末から出社できますか?」

「えっ、合格と言うことですか?」

「はい、そうです。」

「まだ、現職を退職していないので...」

「では、いつ退職できますか?今月末だったら出社できますかね?」

なんともあっけない採用連絡を受けた。数年後にバブル経済が崩壊し就職氷河期となる後の世代には信じられないスピード感。こうして青年は望んでいたエンハツ社への転職が決まったのであった。

その日から現職から退職、そして引っ越しと僅か三週間の間に手続きを終えてしまったのである。

 初出勤を控え、ブルーバード初のFFだった愛車で浜松に向かった。旧跡、浜松城をみようと思った。子供の頃から見慣れていた姫路城との大きさの違いに戸惑った。小さく見えた。岩石を僅かな表面加工だけで積み上げる野面積の石垣があった。佇まいは何百年経ても変わらないという。ニュートン物理学を知る由もなかい当時の職人の勘と経験に彼は改めて感服した。青年が新会社に慣れパワーを発揮するには少し時間が必要だった。

 

つづく

◆新企画:Enjoy your ride : Self check Edition

◆参加者募集:ご自身のバイクでご参加ください。

◆目的:真実を知って安全で快適なバイクライフをエンジョイすること

◆日時:2025年11月30日日曜AM

◆集合場所:磐田市見付セブンイレブン駐車場北側

◆時間:10時集合出発(安全な場所へ移動、約20分程度)

◆所要時間:5~10分程度/人

◆参加費:無料

◆YouTubeの動画撮影のご協力とご了承お願いします。NGの方はお知らせください。

●雨天延期

今後、随時開催を検討中

勿論、遠方の方はご友人同士でセルフチェックしていただいてもOKです。結果を共有していただけると幸甚です。

 

 

 

◆朝日電装

サプライヤー館とも言える西展示棟の中で、二輪関係の未来を展示してくれていました。素晴らしい。

しかも内容が安全だけでなくワクワクするも提案もあり、早く市販車に実装されることを期待しています。

Explanation of Data Flow in Cloud Systems

ライダーの安全性を高め、走行習慣を改善するために、センサーとAIを活用して走行データを分析し、事故防止や状況把握を支援や提案してくれる。

 

よりきめ細かい分解能でエンジン制御をより滑らかにすることで、コントローラブルなドラビリを示現してくれる。

これは、パーソナルウォーターコミューターなどで採用されているスロットルレバーですが...私の個人的見解としてはバイクにはあまりお勧めしたくないです。

きめ細かいスロットル制御ができないだけでなく、特にビギナーがパニック時にはスロットルを開けてしまうんですよね...(T_T)

PCでは当たり前のタッチパッド、近年では四輪でも採用すれています。

二輪用のタッチパッドで、近年ではメーターの機能はどんどん進歩しているので、その必要性が考えられます。ですが走行中には使うことはあまりお勧めできません。

ダイヤル式の方がヘッドアップしたままで操作できるので、まだ先かもしれません。

これは、盗難防止に早く市販車に実装して欲しいですね👍

 

朝日電装の技術開発に期待したいです。

 

 

 

◆ホンダ

CB1000F

CB-Fについての伝説は様々なメディアや関係者が語られているので、もう必要ないかと💦

横からのスタイルは申し分ないですね。

早速跨らせて頂きました。

身長172の私にはジャストサイズですね。

ホンダさんのCB系はハンドルがやや遠い傾向があるのですが、これは自然に腕を伸ばすとハンドルに届きます。運転し易そうです。

跨って、ハンドル周りを見るとメーターもミラーもすべてが見易そうです。

ただ、CB750Fのような雰囲気が薄いのは...私的には

とは言え、今風のスタイリッシュな液晶。ただ老眼の私にはもう少し大きいのを望みます。

スイッチ周りはすっきりして余計なものが無いのは好感が持てますが、少し寂しいと思うのは私だけ...💦

エンジニアの私としては、クラッチケーブル設計担当者の苦労が見えます。

CBRと同じにはしなかったようで大変でしたね。

ケーブルはできるだけ曲げずに直線的にし曲がりはできるだけ大きなRにしたいのですが、S時状にしてブラケットもやや長めで....お疲れさまでした。

更に..シフトロッドのエンジン側にはリテーナブラケットがわざわざ追加されています。オイルシール抜け止めでしょうか。

様々な点で発売時にして熟成の域に達しているようです。

◆ホンダ

EV OUTLIER Concept

 

開発者に解説していただきました。(画像をクリック)

 

クルーザーでもない、ロードスポーツでもないアーバンモーターサイクルとでも言えばよいのか

ホンダが提案する新たなバイク

電動が故に達成できるスーパーローフォルム

足つき性が良いだけでなく、ライダーが快適に座る事が出来て長時間の走行も問題なし

そして、かなりのロードラッグ:空気低空が少なく電費にも効果がありそう。

実は、私も同じコンセプトのモデルをエンジンで設計していました。残念ながら実現できませんでしたが。

しかし、ホンダが実現してくれそうです。

更にはホンダの自立技術を組み込んで安全で快適なバイクが市販される日がそう遠くないことを予感させてくれる楽しみなモデルです。

リヤショックには電子制御減衰機構が既に装備されていて、単なるConceptのモックアップでは無い事が伺える。

フロントサスペンションはゴールドウィングと同じダブルウィッシュボーン

キャスター・トレールが少し気になりますが、現行のクルーザーと遜色は無いとのこと。

是非市販して欲しいコンセプトです。

◆カワサキ

Z900RS SE

もう特に説明もいらない成熟のZ1(昭和世代なので💦)

SEとなって2026年には更なる緻密な制御を装備しより乗り易くよりパワフルによりエモーショナルにバージョンアップされ市場に投入される。

私も欲しい一台

 

何処から見てもカッチョイイ👍

時代が過ぎても古さを感じさせないので、何年たっても乗り続けられる。

実は、シートも変更されているそうです。足つき性と下も要チェックです。

WheelもスタイリッシュでMotoGPにもありそう

実はエキパイの集合部の形状が変更されています。

そして、ドライブレコーダーなども標準装備となります。

オプションや変更するパーツは無くても良いかも

 

◆カワサキ

水素エンジンネーターサイクル

 

かなりの部品が専用設計のようです。

デザインはカワサキらしいスポーティな形状と水素でクリーンイメージの水色が施された美しいフォルムにカワサキの本気度が伺える。

 

パニアケースには水素タンクが装備されているのでしょうか。

高圧ガスに耐える形状は球か円筒が理想なので、複雑な形状でシートの下に収めるのは難題です。

 

エンジンはH2ベースでしょうか。コンプレッサーで過給されているようです。

過給後の圧縮終了温度と圧力で水素のプリイグニッションやバックファイヤー他が気になるところです。

重量に気を使っているのでしょうね。ホイールはカーボンです。

実際に走行しているかと思われます。

グリーンのキャップを外して水素をチャージすると思われます。

《四》学生時代(ハイティーン)

 ここは、神戸市舞子が浜。青年と言うにはまだあどけないいがぐり頭の少年は高校進学ではなく、神戸高専の機械工学科に進学していた。内燃機関と自動車のとりことなり普通高へは魅力を感じず、十六歳から大学と同じようなカリキュラムで高校生よりも三年も早くから工学を学べる高専を選択し競争率約三倍に合格していたのである。
 普通高は中学の卒業式前後の三月中頃に入試と合格発表であるのに対して、高専は二月早々に合格発表があるので、進路が早々と決定した少年は早くも春休み気分。お年玉で購入したラジコンカー、この時は田宮製グループ5シルエットフォーミュラのポルシェ935を自宅の前で操縦して楽しむ日々であった。やはりまだ子供である。そこをたまたま通りかかった同級生の近所の少女はまだ受験勉強の日々。思わず『気楽でええな』叱責気味の声であった。しかし、まだ子供の少年は『えへへ、羨ましい?』小学生かお前はと少女は心の中で思いながら、プイっとそっぽを向きながら自宅に向かった。
 神戸高専には神戸市内だけでなく周辺の市町村から電車などで多くの学生は通学していた。それだけで、少年にはカルチャーショックだった。
 神戸出身の同級生達の中学時代に廊下が消火器の粉で真っ白だったとか、廊下のガラスがほとんど割れていたなどの話を聞いてまるで金八先生そのままやんと驚いたものである。そう、少年は校内暴力など知らない素朴な田舎者だったのだ。姫路から神戸と言う都会に出たことを実感した瞬間だ。
 彼の名は辻井栄一郎。晩年はプロフェッサー・アイザックと呼ばれるようになることを誰も想像すらできない何処にでもいる少し人懐っこいあどけなさのまだ残る少年である。
 高専生になってもフォーミュラワンへの思いは変わらなかった。そんな、ある日同級生が『やったぜぇ』と大声で教室に飛び込んできた。『どうした?どうしたぁ?』
すると彼は、ポケットから免許証を取り出すと高らかに掲げながら『ついに、原付の免許合格したぜぇ』
『おぉぉぉぉ!』
『やったなぁ』
『先を越されたぁ』
『次は俺だぁ』と叫びながら彼を囲んだ。
高専は三ない運動とは少し無縁ともいえる。
 正確には親の承諾が必要なのだが、基本的に免許取得を禁止していない。
少年もいつかは自動車の免許を取得するつもりでいたが、原付や自動二輪の免許はこの時はまだ眼中になかった。しかし、同級生が免許証を持っていることが、とても眩しく、先に大人の階段を上っていて、自分がまだその階段の下にいるような気持がした。
 また、一人今度は中型自動二輪の免許に合格した同級生が現れた。何人もの同級生が羨望のまなざしである。
 そして、彼は雑誌オートバイをカバンから取り出すと、『やっぱり、フォーワンだぜぇ、ぜってぇ、これに乗るんだ。』
『いやいや、ゼッツーだぜぇ』
『おめぇに、限定解除はむりだぜ、免許もまだのくせに、ゼッツーはあきらめな』
 そんな会話を聞いていた少年は、そういえば、ナナハンライダーと言う漫画もあったなぁ、それと熱風の虎も思い出していた。しかし、熱風の虎は村上もとか原作だということしか知らなかった。今度読んでみるかな。
 そんなある日自宅近くを歩いていたら、目の前をホークⅡが走り去っていく。あれっ、運転しているのはチュータやん。そう小学校から高専の今も同級生の彼が颯爽とバイクで駆け抜けていったのだ。それは、シールドを外した、ヘルメット越しだが確信があった。翌日、本人に確認したのだから、間違いない。
 そして、少年は16歳の誕生日を迎えるとすぐに原付の免許を取得した。
 ある日遂にその時はきた。友人がバイクに乗ってみる?と誘ってくれたので、二つ返事で友人の家に遊びに行き、初体験。
 それはエンハツ・チャッピー。お買い物バイクとでも言えばよいのか、買い物籠もついているが、変速機付きの装備的にはバイクだ。
 少年は、息をのみながら、キーをオンにしてキックペダルを一気に踏み下ろした。すると2サイクル特有のビビンビンビン…と言う不正燃焼音と共にエンジンは目覚めた。もう興奮である。左足で一速にシフト。さぁ、発進だ。ドキドキと鼓動が早まる。エンストして格好悪いところを友人に見られたくない。しかし、生まれて初めての儀式はここまでは順調だ。実は、クラッチは遠心式なので、発進はスロットルを開けるだけでスムーズにあっけなく走り始めた。しかし、それは少年に翼が生えた瞬間でもあった。たった時速30キロ程度であるが、それは自分の右手一つで制御され、顔と体に風を受けるのを感じることがこんなに素晴らしいもので爽快だったとは、初めて自転車に乗れるようになった時でもそこまで感じなかったのにである。
 エンジンってすげえ。しかし、これはたったの4.7馬力フォーミュラワンの約百分の一しかない。百倍ってどんだけ!
 それから、バイクに興味が一気に傾いていくのは至極当然であった。
 そして、時代は空前のバイクブームへと突入していくのであった。
 同級生の影響もあり、興味は四輪から二輪へとどんどん傾いていき、まだ原付とは言え免許を取得してしまってはバイクに乗りたくて仕方がない。辛抱しきれない彼は父にさりげなく免許を取得したことを告げ、バイクに興味があるだけでなく、所有したいことを実に遠回しに
「中田君がバイクに乗ってるんだ…」
数週間後には
「今井君がバイクで日本海へ行くんだって」
と彼の父は
「栄一郎はバイクが欲しいみたいだなぁ。しかし、どうしたものか」と母と会話するようになってきていた。
 そして、ついに父にアルバイトをしたいことをそしてバイクも欲しい事を告げるのであった。
 頑固で昭和体質の父ではあるが実は、息子には甘い。たまたま通りがかったバイク屋で、ホンダのTL50と言うトライアル風のバイクの新古車が格安で展示してあるのを見つけてしまった。
「まだ子供の栄一郎が変なバイクを買ってもなぁ。これならまだ良いかも」
 これこそが彼の人生を決定的にする瞬間だったのかもしれない。
 そして、ついにその日(納車)はきた。
TL50が目の前にある。
「今日からこれが俺のバイク・相棒だ。」
全身から喜びがあふれでていた。
「乗るのはヘルメット買ってからよ。」母は心配でたまらない。
 

つづく

《三》衝撃の出会い (少年時代)

 

 1976年、中学二年の春の写生会にいがぐり頭の少年は姫路城の丸の内広場とお城の間にある一段高くなった通路脇の座るのに丁度良い大きさと形をしたまるで休憩するためにでもあるかのような石を見つけそこに座っていた。そこから天守閣を見上げるとパースがかかって今でいえばインスタ映えする角度から白鷺城が見えた。
 この日は下書きだけをして学校に戻ってから絵の具で仕上げるよう先生からの指示があった。
 しかし、少年はお城を観上げては瓦一枚ずつ鉛筆で丁寧に描き込んでいた。それは、絵の具で色を塗るつもりなど全くないかのように。実は、その通りであった。それを証明するかのようにたまたまそこを通りかかった小学生の女の子は、少年が描いている絵をのぞき込んで思わず驚きの顔と共につぶやいた。
 『うわぁ~、写真見たい』
 少年は、小学生の時には何度か姫路市の絵画コンクールなどで佳作を獲得していて、子供らしく漫画大好きで、サイボーグ009の石ノ森章太郎に憧れ将来は漫画家を夢見ていた。
中学生になると絵画に目覚めたのか画家を目指そうか、サルバドール・ダリのようになりたいなぁと思いにふける日々であった。
 実はその夏に描いた世紀末を彷彿させ、さながら地獄絵図を描いたような絵が学校内投票で一位になったほどであった。
 そんな少年の趣味はもちろん絵を描くことであるが、自転車に乗ることと時間を見つけては本屋で漫画を立ち読みをすることでもあった。
 小学校では自転車が禁止の校則があり、その反動か中学では、BMXに夢中となり、自分のアップハンドルのスポーツ自転車で出かけた時にはウィリーの練習しながら、市内を走り回る始末であった。
 一方、立ち読みはご想像の通り漫画単行本コーナーに入り浸るのだが、ある日通りかかったホビー本コーナーの隣が車雑誌コーナーで、その日は何故かオートスポーツ誌、それはモータースポーツ雑誌の中で最も発行部数が多い専門誌が目に留まった。昭和の少年には車にも少し興味があったのだろうか。父親のフローリアンを一・二度町内を一周程度だが運転したこともあった。その時の印象は車って真直ぐ走らないんだ。速度は2~30キロ程度であったが、ハンドルとの格闘が第一印象であった。昭和の日本車はまだまだ性能で欧州車に後れを取っていたと言わざるを得ない。直線で真直ぐに車は走っているのだが、握りが細くて直径の大きな(当時パワーステアリングは高級車だけだった。)ステアリングホイールは前輪からのキックバックで左右に揺れるように動きっぱなしで、勝手にステアリングが回転してしまい車が蛇行するのを防ぐ必要があったのだ。近代の高性能車からは想像もできないものであった。
 話を戻して、何気なく雑誌を手に取り、パラパラっと眼を通したときにハッとして手が止まったというより、固まった。そこにはフォーミュラワンが大々的に取り上げられていて見開き何頁にも渡って大きく何枚もの写真が掲載されていた。それは、白地に赤く染められマールボロ(もちろん煙草は未体験な初心な中学生は、なんと読むのかも全く知らなかった。)の文字が描かれたマクラーレンM23とマルティーニカラーの真っ赤なブラバムBT45であった。衝撃が走った。少年は心の中でつぶやいた。
 『こんな格好良い、いや美しいパーフェクトバランスな物がこの世にあったのか。これは何だ。』
 モータースポーツとの初めての出会いである。
 その日からフォーミュラワンにのめり込んでいった。
 少年は誰がこんな美しい形態を創造したのだ。しかもそれを知るとフォーミュラワンとはモータースポーツの最高峰で且つ地上で最も速い、走ることだけのために設計製作されたものと知るとエンジニアの凄さに心打たれたいや、まるで雷が落ちたかのような衝撃であった。
 確かに芸術家には果てしない想像力があり、人々の心を打つだけでなく、時にサルバドール・ダリやピカソのように政治的宗教的なものもあるのは事実であり、少年もそんな影響力のある絵をいつかは描いてみたいと思っていた。がしかし、絵などの芸術は所詮絵であり、機能など何もない。
故にその価値は理解できる者だけの物で、子供などには全く理解できない。一方、フォーミュラワンはどうだ。美しいだけでなく、その形態には速く走るための論理的な意味が、機能があるのだ。そして、それは万人に正に老若男女問わず感動と興奮を与えていたのだ。
 それを知った少年は、芸術の儚さを感じ、そしてそれはフォーミュラワンデザイナーに敗北したにも等しかった。
 年頃な少年ではあったが、アイドルや野球選手などに興味があまりなかった。が、フォーミュラワンのデザイナーやドライバーが彼のアイドルとなるのに時間はかからなかった。
 そして、壁に貼ってあった、アグネス・ラムのビキニ水着のポスターはマクラーレンやロータスのロニー・ピーターソンのポスターに代わり、画家になることを夢見毎日のように描いていたシュールな抽象画は、マクラーレン、フェラーリのフラット12、ブラバムなど当時のフォーミュラワンカーに関するものばかりになり、時には全紙の大きさに鉛筆だけで描き、部屋の壁一面フォーミュラワンだらけになってしまった。
 奇しくもその年の秋に日本グランプリが富士スピードウェイで初開催され、雨の中なんとマクラーレンM23駆るジェームスハントがフェラーリのニキラウダを逆転チャンピオンになったのは後に映画ラッシュとなったほどの伝説のシーズンでもあった。
 当時のチャンピオンシップは、テレビ中継もなく今のようにネットもない時代。雑誌が唯一と言っても良いほどのレースの情報源だった。定期的に購入していた少年サンデーがオートスポーツ誌にとって代わってしまったのであった。しかし、その後彼は再び少年サンデーを購読し始めた。何故なら、赤いペガサスの連載が始まったのだ。主人公赤馬研がフォーミュラワンチャンピオンを目指す漫画だからだ。
 実は、当時もう一つの情報源があったのだ。誰知ろうNHKのお昼のニュースでフォーミュラワンのレース結果を三日遅れの水曜日にわずか一・二分であるが報道されていたのだ。
 偶然それを知った少年はオートスポーツでレースの開催日を確認し、その週の水曜日のお昼休みには学校を一人抜け出し、なんと友人の文房具屋さんに駆け込み、『おばさん、ニュース見せて』と懇願し、レース結果を動画で観て一人興奮したものである。やはりまだ子供だ。
 ある時、モナコグランプリが報道された。これがとてつもなく衝撃的であった。他のサーキットでは時速300キロを超え平均速度も200キロ前後であったが、単に凄いなぁと言う程度、いやそんなことはないのだが、モナコグランプリを観てしまった後ではその程度になってしまうのだ。
 平均速度は百数十キロ、最高速も当時は200ちょい程度であったろうか?今でも、平均170キロ程度の市街地コースは後に『絶対に抜けない、ここはモナコ』の名中継を生んだほどの狭くツイスティなコースであった。  
その時の優勝のフランス人パトリック・デュパイエ駆るティレル008は、正に地面を飛ぶようにモンテカルロを右に左にひらりひらりと言うよりもズバッズバッと駆け抜けていったのである。
それは、想像を絶する速さ。少年には自殺行為にも見えるが、それはドライバーの勇気とテクニック、そしてその時代のハイテクの塊であることの証であることを理解するとともにそれを受け入れ、フォーミュラワンの凄さを改めて思い知った瞬間でもあった。
蛇足であるが、今と違い当時のフォーミュラワンは生存率50%と言われていて、事実生きて無事に引退することができたドライバーはほぼ半数で毎年のように死者が出ていた。
その年の世界タイトルはロータス79駆るマリオ・アンドレッティ。後に、ベンチュリーカーとも呼ばれたグランドエフェクト最初のチャンピオンカーである。
 その年は他チームのフォーミュラワンのデザイナーですら、ロータスの速さの秘密を完全に理解できていなかった。
 オートスポーツ誌でも毎回のように謎解きの記事が掲載された。
 一方で、ブラバムでは奇才ゴードン・マレーが表面冷却ラジェターと言う野心的なアイデアのBT46を発表。少年はまたもその美しさに目を奪われた。そんな考え方もあるんだ。と感心しきりでロータスのコーリン・チャップマンを頂点とする往年のデザイナーだけでなく、新進気鋭のプロフェッサー・ゴードン、やティレルP34の六輪を設計したデレック・ガードナーなどドライバーの戦いだけでなくデザイナー達の戦いにも興味津々となって行くのであった。
 それらに感化された少年は見様見真似で自分なりに設計のまねごとを始めた。絵心はあるので、四面図を描くのに苦労はしなかった。
 そして、自分自身が驚くことがシーズンオフに起こったのである。
 いつものようにオートスポーツ誌を購入。各チームが翌年の新車を発表していた。
 そんな中にシャドウレーシングのDN9があった。後にアローズと裁判沙汰になったことで有名になり、レース結果では記録を残せなかったのは残念である。
 しかし、そのDN9と少年の描いたフォーミュラワンの側面図は全くの瓜二つ。まるでどちらかが盗作でもしたかのようで、特にサイドポンツーンの二枚翼とその一枚目の山なりのような形状まで、全く同じであった。
 それを観た少年は一人大興奮であった。
後にロータス79の秘密がベンチュリー管、つまりベルヌーイの定理が応用されていることが解明され、シャドウDN9の解釈は少し異なるものであったのは残念な事実でもあった。
 しかし、まだ中学生の少年にはフォーミュラワンデザイナーであるトニー・サウスゲートと同じ思考ができたことに満足するには充分であった。やはりまだ可愛い子供だ。
 その頃から少年には様々なアイデアが浮かんではフォーミュラワンにそれが搭載されたらどうなるのか妄想する日々となった。
 中には、サスペンションのコイルスプリングを電磁磁石の反発を利用し電流を制御することでバネレートを走行中に直線やコーナーで変更するアクティブサスペンションのアイデアをオートスポーツ誌に投稿、 当時モータースポーツ評論家で後にレーシングカーデザイナーになる館内正氏のコメントを添えて掲載され、中学生らしく少年は興奮したのであった。
 因みにフォーミュラワンにアクティブサスペンションが登場するのは約五年後。
 そして、ドイツのアウディが電磁コイルサスペンションの研究モデルを発表するのは約20年後の事である。

つづく