《五》小さく見えた古城
MF社(モトフランス社)でのプレゼンの後、予想より早くGOサインが出た。製品化までの道のりは厳しかったが、21世紀に入って間もないころその小型エンジンは誕生した。エンハツ(遠州発動機)初のオフセットシリンダー。約70㏄のOHV、シリンダーのオフセット量は10ミリだった。材料調達から完成品検査、出荷まで全てフランス国内で完結。船外機として売り出され欧州の運河をゆく舟の原動力となった。自身が設計に携わったエンジンが、遠いフランスの工場でラインオフしたことに感慨を覚えた。
〜6年前〜
バイク雑誌がトリガーだった。1987年ロードレース世界最高峰、GP500ccが日本・鈴鹿で初開催された。日本の3社のGPマシンが揃った。バイク人気はレースの人気へと広がって青年もレース雑誌を愛読した。山河堂の雑誌はあるバイクメーカー・エンハツの紹介記事に目が止まった。そしてなんと最終ページに「人事部」の電話番号があったのだ。通常広報や宣伝部門の問い合わせ先が掲載されるものだが、エンハツは人事部と掲載されていることに気付き、青年は軽い気持ちでダイヤル
「バイク雑誌を見て電話させて頂きました。」と青年の話を聞いた勘のいい対応者は人事の中途採用担当者の木村氏にすぐに変わり「履歴書を送ってください。」更には「今月末の土曜日に面接に来られますか?」という話だった。
大企業の面接ってこんなに簡単に受験できるものなのと、キツネでも騙されたような感覚であった。
しかし、創業は明治時代、神戸に本社を構える精密機械製造業の老舗に、4年間務めてきた青年にとってこれこそが大きな転機となるのだった。
遠州の郊外、神戸には体験したことのない猛烈な浜風が頬をなでるなか、面接会場に着いた。ピアノやベアリング工場に囲まれた工場地帯の一角だった。面接官が質問を投げ、応募者の反応や言葉づかいに素性を見るのかと思いきや、違った。あなたは、機械工学でどんな研究や実績がありますか?との面接官の一言に猛然と動きだし、2ストロークの可変式チャンバーを考案した経緯と解説をおもむろに椅子から立ち上がりホワイトボードを埋めたのだ。名付けてバリアブルチャンバーですと語った。青年がバイクへの思いを押さえる事が出来ず、個人的に特許を出願していたのだ。
いぶかしげな面接官の表情も見たが、青年は続けた。排気の脈動を精査するなかで辿り着いた仕組みです。既に特許も申請してます、と。面接官の表情に変化はなかった。が存在感を印象づけた思いだった。そしてそのわずか三日後、電話が鳴った。
エンハツかの面接結果通知の連絡であった。
「エンハツの木村です。お世話になります。早速ですが、来週末から出社できますか?」
「えっ、合格と言うことですか?」
「はい、そうです。」
「まだ、現職を退職していないので...」
「では、いつ退職できますか?今月末だったら出社できますかね?」
なんともあっけない採用連絡を受けた。数年後にバブル経済が崩壊し就職氷河期となる後の世代には信じられないスピード感。こうして青年は望んでいたエンハツ社への転職が決まったのであった。
その日から現職から退職、そして引っ越しと僅か三週間の間に手続きを終えてしまったのである。
初出勤を控え、ブルーバード初のFFだった愛車で浜松に向かった。旧跡、浜松城をみようと思った。子供の頃から見慣れていた姫路城との大きさの違いに戸惑った。小さく見えた。岩石を僅かな表面加工だけで積み上げる野面積の石垣があった。佇まいは何百年経ても変わらないという。ニュートン物理学を知る由もなかい当時の職人の勘と経験に彼は改めて感服した。青年が新会社に慣れパワーを発揮するには少し時間が必要だった。
つづく


























