文体は現代ので了承ください。
「デブというものに好きでなったわけではありません。
更に言えば、意図としてなったわけではありません。
不可抗力とでも言いましょうか、フロイトで言うところの無意識が私をデブにしたのです。
自我の要望も、超自我の要請も、無意識での出来事を止める事は出来なかったのです。
しかしそれでも、皆が言うではありませんか。
肥満は自身の怠慢だと。
申し訳無い事ですが、私はそのような不見識には見聞する余地を持ちません。いや、持てないのです。
普段生きているだけで、私が必要としない雑事に追われ雑念にかられるのです。もうこれ以上、私には余裕はありません。
しかしどうして、自分自身が自分自身を認めれば、たとえそれが惨めか無惨であろうとも、一つの悟りというものを覚えます。
分かりますか。
勉学も閃きも、全ては悟りというものへの方法でしかないのです。
そんな、勉学も閃きも超えるものを私の脂肪は私に与えてくれた。
具体的な内容は、それこそ単純なる線が複雑なる歴史の時間軸を表してしまうというもの。
人類史という歴史の時間軸。
それは一重(ひとえ)に飢餓との永きに渡る戦い。
一つ、貯蓄。一つ、文明。一つ、戦争。
一つ一つ、飢餓に対する抵抗なり戦いではないですか。
その戦いに勝利をする事は、多数の弱者の屍(かばね)をこさえ積み上げ乗っかるの結果でもありました。
民の上に王候貴族、労働者の上に資本家。
それをカール・マルクスが科学的に分析し感情的に否定するまで、それこそ西暦より長い時を必要としたのです。
それでも、その事実が解決され、その事実が現実として過去の出来事として語られるようになったのは、人類史内でたった数十年しか無いではないですか。
その貴重にして希少なる時間を外れれば、デブに成れるのは王候貴族か資本家しか出来なかった訳です。
そう、彼等に虐げられ彼等の下に敷(し)かれる筈の私が今こうしてデブに成れたのも、今に生まれれたお陰。
希(まれ)たる事は誉(ほまれ)。
有り難い事はありがたい。
これが悟りであります。
私は脂肪に包まれた事で、この悟りに包まれたのです。まるで愛する人に抱(いだ)かれたのような。
ですから、デブで良いではありませんか。
デブが善いではありませんか」
ちゃん ちゃん
コーハン
