自分で自分がニルヴァーナの近くに居ないことをたまに思い知らされます。

それがいつも現実としてあります。

微々たる感覚の積み重ねでしかないので長い距離の仏道を歩み続けるしかない。

いつも横道にそれる、行いの乱れた修行者になってしまいました。

 

慈悲の瞑想をガードレールにこの世と彼の世に縛り付ける業(カルマ)と縁を切るために。それをぜったいやるべきとか、やりたいとかいう感覚だとそこにも執着の種を植えることになってしまう・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の頭の中には、ある課題があります、

しかし、課題そのものが間違っているかもしれません。

 

サイコパスを、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬとは

いったい、どういう瞑想なのか、どう解脱できるのか?と

 

大量殺戮者一人を殺して大量殺戮にならない方が一番近いわけですよ。

 

しかし、我々は法的拘束によって、例外なく、殺してはならないを強制されます。

たまに愚かに見えます。大量殺戮者が死刑になった場合それは

大量殺戮者ではなく別の誰かだっりするし大量殺戮の後です。

大量殺戮者が法的権限を握ってしまったのです。