とりあえず、私がMTスポーツカーに乗ってないと何かが足りない。

これは、いつか治さないといけない。酒をやめました、たばこやめました

最後は車やめる・・・

 

50なんていう年齢を過ぎてしまうと、さすがに、これから、何か始まるという

感覚で居られる人は居ないと思う。我が身に視線を当てると

これから、いろんなことが終わっていくと予想するのが普通でしょう。

50歳なりたての頃はその終わりを上手くこなしてやろうと躍起になってたが

上手くいく気がしないし、

 

仏教でもなにかの途中で死生の点を超えるわけだから、どう足掻こうが

無駄なんで、執着にならないよう今の内から、どうでもいいや

と思うようにしている。

 

あと、

 

人生の中でクソ忌々しい人間の影響で今も人生狂わされたとか思うと

それも、悪いポテンシャルになって大変になるのでそこも、ポテンシャル

を減少方向に調整する感じでアクセスしない。

 

それから、今までモグラたたき的に潰してきた、

むかつくクソガキがどんどん出てきて犬のように吠える業のポテンシャルに

対しても、鍛冶屋の犬を決め込むということになるわけで

けっこう大変なわけですよ。

 

 

善行為をさせない世の中になってます、私のような無能にとってはとくに。

思考を止め、根元から貪瞋痴をとめるという、長老の瞑想テクで生活上でも

記憶にアクセスしない+思考しない=貪瞋痴止める

その感覚が掴めたので、瞑想で集中的にやれば、かなり修行進むと思う。

これは、数カ月かけて、先輩修行者たちに囲まれて安定してやり続ける必要がある

わけですが

 

そういう風にさせないような、ことが起きた場合、ならなかった場合、

状況が許さない場合

もう、第2禅定とか最終的な第9禅定とか言ってられないので、

慈悲の瞑想しかないわけですよ。

「生きとし生けるものが幸せでありますように」

これさえ本気で念じ続けられれば、なんとかなる。

本気のポテンシャルを日々増幅させていく

 

請願としては

「私は慈悲の瞑想をどんな苦難のとき永遠に念じ続けます」

ということになると思います。

 

言論人の人々も。そして、ブロガーの人々も、人間のことしか考えてなくて

そこに集中して、貪瞋痴を回しながら狭いところで心のポテンシャルを

増幅させてるわけです。

その局所的な愛を全生命に拡大しないと慈悲に達しないのです。

 

局所的に向けられる愛をサンプルに全生命に拡大できたら

初めて慈悲に達する。

局所的だとそれは愛欲であり貪瞋痴が

かならず割り込んでくるもんですだから慈悲に達することが無いんです。

 

私が→親しい生命がと言う風に徐々にこじ開け、全生命に拡大していくわけです。

 

こんだけ、やっても、後退するんですよ私は、なんでだろう?