先日、福島町に所要があり、せっかくなので少し足を伸ばし松前にも寄ってきました。

地元道南でも幕末の歴史は、ほとんど箱館戦争・新撰組や榎本武揚らの活躍が中心になっております。

ここで、幕末に命を賭して外交交渉をした老中、松前藩代13代『松前崇広を紹介したいと思います。

                     

    松前崇広 

        

13代松前藩主。幼名は為吉から盈之助。嘉永2(1849),甥に当たる12代昌広が病気で隠退し藩主になり従五位下伊豆守に叙任された。1万石の外様大名としては幕閣の老中職までも務めたのは異例であり優秀な人物でありました。

 

この時期、蝦夷地へのロシア船等々外国船の往来が頻繁になり,幕府は北辺防備のため崇広を藩主に築城を命じた。城は安政元(1854)年松前に完成し福山城と名付けられた。同2年日米和親条約の箱館開港に伴い松前周辺を除く蝦夷地が幕府直轄となり、元治元(1864)年に老中となり、海陸軍総奉行重ねて陸海軍総裁を兼務。慶応元(1865)年の兵庫開港問題では、当時、幕府と英・米・仏・蘭の4ヶ国は、幕府に対し「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張した。四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部正外、松前崇広の両老中は、2日後やむをえず朝廷に無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大阪城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、松前崇広、阿部正外両名は、もし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉を始めれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。朝廷は、松前、阿部らの違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、929日両老中は解任され国許謹慎を命じた。幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと四カ国に対して回答した。開港日は当初の通り慶応3127日(1868)であり、前倒しされることはなかったが孝明天皇の同意と、また四カ国にとっては幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。(まっ この後もごちゃごちゃがありましたけどね・・・(^^♪ )

 

 

 

命を賭して交渉した松前崇広は慶応2年(1866)年1月に松前に帰還したが、同年425日、失意のなか帰藩し38歳で病死。文武にも優れ、西洋文明に関心が深かく国益を見据えた優秀な老中であった。(遠藤浩司)

 

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