函館元町ホテルから、ぶらぶらと5分程度 東坂を下って行くと,函館湾に・・・ 

 

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当時、外国人居留地のあった大町で、1858年 安政5年 ロシア国領事

一行が来函、1860年前後から日本で最初のロシア料理店とホテルが

開業し、もしかしたら、「日本のホテル発祥の地」ではと・・・ 

 

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※本格的なホテルとしては、勘定奉行小栗上野介が提案、清水組(現在の清水建設)に
 より建設され1868年開業の「築地ホテル」水洗トイレもあったと言われるが5年で焼失・・・
 残念(>_<) ですが~さすが小栗忠順 ・・・ (^^♪
【築地ホテル】 

築地ホテル館

ロシアホテルは1860年から1879年までの約20年にわたって函館に存在し~
香港のDaily Press社から発行された1870年版の住所氏名録、いわゆる「ディレクトリー」に、

「russian hotel」と表示されている。ホテルはもっと前から存在していたが、「ディレクトリー」上
この年から、1879年版まで継続したとある。
同時代の日本語資料では、今まで見た限りでは商人ピョートルの家とかピョートル屋敷と
の表現しかないが、「ディレクトリー」に記載のある「ロシアホテル」としたいとある。
しかしホテルというと立派なものを想像するが、史料からはレストラン兼ホテルの小規模な
ものだったと思われる。
ロシア人のP・A・アレクセーエフと妻が経営するホテルのレストランには、コックとして複数の
日本人が雇われており、ここではパンも焼かれたが、その技術を覚えた日本人従業員が後に
パン屋を開業した事実もある。
現在の海岸町周辺に約3500坪の土地を借り、牛や豚を飼い牛乳なども自ら調達したとある。
ホテルの主人は1871年に東京での布教を開始するニコライ神父のために上京し、
その年、同地で亡くなり、残された妻ソフィヤは、日本人スタッフとともにその後も
ホテルを切り盛りし、1879年まで経営が続けられていたとある。
又 この場所は 同志社大学の創設者 新島 襄が命がけで海外渡航を果たした場所。
幕末期といえども 函館には「ロシアホテル」やレストランもあり周辺には14カ国ほどの領事館
及び多くの国の商人もおり、必然的にホテルが開業していたと思われる。
このような街は、当時は日本中で函館以外、他になかったのでは・・・
また函館の居留地は、横浜・神戸など他の隔離された居留地と違い、外国人が居留地に留まらず
普通に函館の街の中を自由に市民と溶け込んでいた国際都市であり,様々な商売が積極的に
行われ,「ロシアホテル」は、さぞ外国人のたまり場になり,毎夜毎夜、にぎやかに盛り上がっていた
と思われますね・・・
 
函館元町ホテル

宿主 遠藤浩司

 
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