今年2014年は、函館 ココ『函館元町ホテル』が、立地している大町にペリーが 来航して160年の節目の年になります。
 
                
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(ペリー艦隊 函館上陸絵図・函館中央図書館資料)
 
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       (函館元町ホテル内 「屯所の湯」より望むペリー上陸地・沖の口番所跡地)
 
 
ペリーが、函館来航の1年前に沖縄に上陸している事は、あまり知られておりません。先日、沖縄出張の際に、宿泊先のホテルから車で10分程度の場所であったため前から一度は足を運びたいと思っておりましたので訪ねてみました。
 
 
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  (那覇ロワジールホテルと前函館ロワジールホテル総支配人 現那覇総支配人の道上さんとご機嫌な私)
 
 
 
 
ホテルからレンタカーで約10分で、泊港そばのペリー上陸地に到着・・・       ペリーは1853年6月6日、首里王府の抵抗を押し切って上陸し、首里城を訪問したそうで、記念碑には、その日付が刻まれています。函館・大町の上陸地に、そのまま運んでしまいたいような、ご立派な記念碑が立っており、羨ましいです。 
 
 
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 ペリー上陸地の記念碑横に、日本最古の外国人墓地、泊外国人墓地があります・・・ この墓地には戦前までに5カ国22人が葬られていて、最古は1718年の  中国(清)人のお墓です。 函館と同じくペリー艦隊の乗組員も7人眠っています。  
 
「琉球処分」1879年から戦前・戦中の記録は、沖縄戦で焼失して不明ですが、
戦後は米軍人らの墓地となり2004年の時点で墓碑は386あるそうです。         1979年には那覇市の文化財にも指定されています。
 
 
 
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左上のお墓は、1848年に没したパリ外国宣教会の宣教師、マシュー・アドネ神父の墓、立派な外観で献花・清掃も行き届いております。右上のお墓は最初に埋葬された西洋人で英国海軍の水兵だったウィリアム・ヘアーズ。1816年没と記されております。この年に来航したバジル・ホール大佐(ベイジルBasilホール)の部下だったそうで、ホール大佐は、帰国後『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)を著し、イギリスやヨーロッパに琉球を「後進国だが武器のない平和国家」として広めた人物として知られております。
 
 
 
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外国人墓地から数分、横の坂を登ると『聖現寺』があります。
聖現寺は、臨時の外国人居留地として利用され1853年5月、ペリー艦隊が那覇・泊港に来航・上陸した。ペリーは水兵居住用の公館・公会堂の提供を求めたが、琉球側は『他に使用し得る場所を得んとせば、聖現寺を即ち神の顕現し給ふ僧院こそ、艦隊碇泊中の住居として貴下等に供し得るものなりと・・・ 余は一時の住居として、この場所に移転さるべき訓令の発せられんことを願ふものなり。』と返答している。さらにアメリカ側は、聖現寺の1年間有償の賃貸契約を申し出ているが、琉球側は坊主が住居用に自分で造った寺院であるから、賃貸契約はできないと返答している。ペリー艦隊の宿泊地となった、この聖現寺は、のちに返還されたが、観音像が行方不明となってしまい、米国人が盗んだものとされたそうです。
 

 
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           (外国人居留地として利用された 聖現寺)
 
 
いつも、沖縄に来ると、ゴルフ三昧と、ありきたりの観光でありましたが、この度は レンタカーを借り、函館とゆかりのある地を求めての有意義な時間を過ごせたと思います。 
 
       
 
 
     私をじっ~と 見つめるホテルそばのいた、賢そうな 野良猫ちゃん
 
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  次回は、第二弾として、函館赴任前に沖縄に立ち寄った『メルメ・カション』
  ついてのブログを発信したいと思っております。
 
 
 
         
 
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函館元町ホテル
宿主 遠藤浩司