『箱館奉行』を訪ねて・・・東京墓参めぐりは、竹内保徳・堀利煕・村垣淡路守範正と・・・この度の東京出張で4人目『 栗本 鋤雲 』についての墓参レポート報告したいと思います。
栗本 鋤雲の箱館奉行就任は1867年6月と記録にありますが、同月の6月にフランスに兼務の外国奉行として派遣され帰国が1868年5月となり、すでに明治の時代になり、箱館奉行としての箱館現地での勤務はなかったと思います。
しかし『 栗本 鋤雲 』の箱館においての活躍は、箱館奉行頭取としての1858年5月~1863年10月、江戸に帰任するまでの期間であります。
栗本鋤雲は江戸猿楽町に幕医師 喜多村塊園の三男として,文政5年(1822年)3月に生まれました。 嘉永元年(1848年)に幕府奥詰医師栗本氏を継ぎ六世瑞見を名乗り後に医師の禁令に触れ安政5年(1858年)に蝦夷地在任を命じられ箱館に奉行頭取として赴任しました。
文久3年(1863年)10月までの5年間,栗本の生涯では37歳から42歳まで働き盛りを箱館の為に、盟友、同時期に箱館に赴任していたフランス・カトリック宣教師メルメ・カションの協力を得て、箱館病院の設立、「七重薬園」を開設し薬草の栽培、久根別川の浚渫をし運輸の利便を図り、養蚕紡績事業などの殖産興業推進、山林開拓、当時の七重村屯田兵の土着に尽力を尽くしたりと様々な多くの事業を行ないました。
また、この箱館での、メルメ・カションとの交流が、後の勘定奉行小栗忠順が中心になって動いた「横須賀造船所」建設など、後の日本の近代化に大きく影響し、バルチック艦隊をやぶり日ロ戦争勝利、アジアの小国が欧米列強と、幕末から短期間で肩を並べる事ができる近代国家なる要因の一つに繋がったのです。
※ 過去の小栗公 関連記事 http://blogs.yahoo.co.jp/hiroloadcup/23490621.html
さてさて、そんな箱館の為につくした『 栗本 鋤雲 』の墓参は、そのうちにと思いながら中々できませんでしたが、今回の東京出張でなんとか足を運ぶ事ができました。
丸の内線、東大塚を下車し春日通りを徒歩10分程度で『善心寺』に到着しました。
境内に入り本堂正面を左に折れ奥へ進みました。
石階段を、降りて右に進むと、『 栗本 鋤雲 』の墓碑にたどり着きました。
やっと~出会えたという気持ちになり、しばらくこの場所での時間を楽しみました。
善心寺境内・周辺の、紅葉を楽しみながら、墓参を終えました。
鋤雲は後に思ったでしょうね・・・
尊王攘夷派が戊辰戦争で勝利を得て、明治政府になり大久保利通、木戸孝允らは
まったく逆の幕府路線の富国強兵など、幕府側のマニュフェストを実行し西洋文化を取
りいれた政策を進めるのですから、完全なマニュフェスト違反ですよね・・・(^^♪
薩長・朝廷など幕府内からも圧力に屈しながら、日本為に尽くした数少なかった開明派
(川路、岩瀬、小栗、水野、永井など・・・)の幕臣たち、箱館の歴代奉行たちもそんな少数派 の優秀な幕臣でありました。
歴代 箱館奉行墓参レポート
番外編・ 函館ゆかりの『墓地ぶらり』 http://blogs.yahoo.co.jp/hiroloadcup/28876541.html
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