ひめゆりの塔 | オレママのブログ

オレママのブログ

気ままに言いたい放題
ごくごく私的な備忘録です。

昨日の備忘録。





沖縄本島南部を訪ねる旅



最終日の朝一番で行ったのが


ひめゆり平和祈念資料館だ



もちろん名前は知ってたし


様々な資料は読んだこともあるが


平和祈念公園同様


私は初めての訪問



これが「ひめゆりの塔」



天皇陛下が献花されるのを


ニュースで見た事があったが



県の施設である


平和祈念公園・資料館とは異なり


小さくて、こじんまりとした施設



ひめゆり同窓会など


個人の努力で建てられ


民間の財団法人が管理している





入り口の横には


ベンガルヤハズカズラの花が



美しくも切なげに咲いていた



様々な学校の有志による千羽鶴が


鎮魂の気持ちを表している



9時開館なので


入場者は私たちを含め数人



資料館の中は撮影禁止だから


ゆっくりと見て回り


全て記憶にとどめる努力をした




那覇市にあった


沖縄師範学校女子部と


県立第一高等女学校には


13歳から19歳の生徒


約1150名が学んでいて



ひめゆりという愛称で呼ばれ


制服に付ける校章にも


ひめゆりの花が刻まれていた



戦火が沖縄本島に迫り


後に終戦となる年の春


2つの学校から240名の生徒が


沖縄陸軍病院に動員され


「ひめゆり学徒隊」として


負傷兵の看護などを担った



赤十字の旗を掲げていれば


敵から攻撃される事はないだろう


と当初楽観されていたが



容赦ない米軍からの攻撃により


学徒隊136名


他の生徒や教師91名が


沖縄戦で命を落とした



そのうちの最も多くの犠牲者を


出した鍾乳洞の上に


ひめゆりの塔が建てられたのだ




資料館に入ると


キラキラした女子生徒の写真と


女学校の活動の様子から始まる


今で言う女子大にあたる学舎で


教員などを目指していた生徒らが



その後、学徒動員されて


沖縄戦で生死を分けるまでの


生々しい記録が続く



命からがら生き延びた生徒の


証言が映像で残されていて


悲惨かつ貴重な体験が語られる




兵隊さんが次々と亡くなるのに


立ち会う生徒たちは


兵隊は亡くなる時には必ず

天皇陛下万歳と言う


と教わっていたのに


誰一人そう言わないのが


とても不思議だったと話す



ほとんどの兵士が最期の時


お母さん❗️と叫んだら


家族の名前を呼ぶ人はがりだと。




死ぬも生きるも一緒だね


といつも手を繋いでいた親友と


近くに落ちてきた爆弾で


生死が分かれ、親友は亡くなり


自分だけが助かった女生徒



親友の親から譲ってもらった


親友の写真を片時も離さず


持っているという。


10代のあの頃の自分たちが


想像もしなかった年になったが


親友はずっと10代の姿だと


一緒に歳をとりたかったと語る。



思わず涙がこみあげてきた




米兵に捕まって捕虜になり

辱められるくらいなら

潔く自死を選べ‼️


と教育された生徒たち



最後まで必死に抵抗した者


一緒に死のうと思いつめた者


自ら死を選んだ者も


少なくなかったから



米軍は抵抗した者には


容赦なく攻撃したが


武器を捨てて投降する者には


人間的に扱う事を後から知り



何故あんな教育を信じたのかと


投降すれば助かる命もあったと


ずっと後悔した生徒たち




逃げ惑って出た海岸線には


おびただしい遺体が転がっていて


その光景が頭から離れず


長い間、海岸へ行く事が


出来なかった生徒もいたという。




こんなに美しい海が


恐ろしい海として


ずっと記憶されている人がいる



美しいだけじゃない沖縄の海


当たり前じゃない平和


命を守る教育の大切さ



今回の旅で様々な気づきがあった




少なからず沖縄戦の事は


何かしらの文章で読んでいた



聞いて語るのは簡単だ


こうして文字にするのも容易い




だけど、生き残った女生徒たちの


生の声を聞いて欲しい



国籍、性別、宗教に関係なく


全ての人に見に来て欲しい



教員などを目指していた


優秀な普通の女生徒さんたちが


どんな風に国や兵士に尽くして


どれほど悲惨な体験をし


生死を分けたか



自分も仲間を追って死にたいと


苦しみながらも生き続けて


悲惨な体験を語り継ぐことで


平和な世界が続くこと


正しい教育の必要性を


静かに訴えている




全ての資料を読んでいるには

時間が限られていたが

それでも

気づいたら2時間たっていた


ひめゆりの愛称で呼ばれた

学舎は那覇市安里にあった


そこは、まさに昨夜

私たちが泊まった宿のあたりガーン


とても偶然とは思えない


何かに導かれて

来るべくして来られた


とても有意義な旅になった