ロラン・バルトは「よそ見の思想家」だったのではないかと思う。彼は生涯めをふらふらし続けた。バルトのテクスト論も、小説を読むときにほんとうの解釈を探すのではなく、よそ見をしつつ、みんなのみていないところを見つめ、それまでとは違った解釈をひっぱりだしてくる。かれはよそ見をみつめた。

私がロラン・バルトを好きなのは「よそ見」をつき進んでゆく所で、それは内田百閒や現代川柳、ブローティガンにも言えると思う。みんな、よそ見をひろげてゆく。よそ見をつきすすむ。授業中の教室でなんとなく誰もいない校庭をよそ見していたひと達がその先でなんとなくペンを持って集まっているばしょ