チェーホフが生きた時代には、帝政ロシアの社会的矛盾が次第に激化し、革命運動が盛り上がっては抑圧され、革命家による皇帝や政府要人の暗殺などのテロリズムが蔓延した。
そんな時代にチェーホフは、革命家にもならず、文学の特定の流派にも属さず、「主義や思想を持たない」作家として、しかしいかにも医師らしい冷徹な観察眼と人間洞察の能力をもって生き抜いた。

チェーホフはいわば「後から来た人」であって、彼が作家として活躍を始めたとき、大きな形式のものはすべて試みられてしまったあとだった。
また彼は思想的にもなんらかの体系を構築したり宣伝したりする立場にはなかった。
確固とした体系的価値観が崩れる時代にあって、彼は滅びゆくものの悲しみといまだに到来しないものの予感の間をつなぐ存在だったのだ。
そして世紀末から二十世紀のモダニズムへと文化や芸術の思潮がなだれこんでいくとき、あらゆる流派から一線を画しながら、同時代の気分を見守り続けた。

  沼野充義『世界の名作を読む』