高田純次はお笑い番組において過激なキャラクターコスプレをしてレポートをすることがあったのだけれど、それは背景にデヴィッド・リンチの映画のシュールなキャラクターが好きだったというのがあったらしい。

で、思うのだけれど、ある表現には、表現そのものの意味生成と、文化の深層でリンクが貼られていく深層的な意味生成がある。ふつう、ひとは深層的な意味生成には気がつかないのだけれど、でも、その表現を眼にした瞬間、あ、なんか気になるな、とおもう。

深い部分でリンクが貼られるということは、高田純次からデヴィッド・リンチに無意識にはられたリンクは、たとえば、デヴィッド・リンチ映画をみたときに、無意識に高田純次を想起しなおすということでもある。もちろん、デヴィッド・リンチ映画にもまたそうしたリンクが無数にはられているだろう。

だから、ながくつづく文化というのは深層としてどこかでそうした多くのリンクがはられており、たえず文化的記憶のネットワークのなかで想起しなおすような関係にあるのではないかと思うのだ。だから、高田純次はいまもメディアのなかにいる。

その表現を覚えている、なんだか気になるものとして思い出してしまうというのはじつは深層にはられているリンクの相互作用によるものではないだろうか。そのリンクは無ジャンルであり、すべての意味表現がつなぎあわされネットワークをおりなしている。

「名言」でも、「名作」でも、「名文」でもなく、「気になる表現」がリンクの相互作用による想起によって時を超えて残っていくような気がする。〈気になる〉のはリンクされているからである。「適当」な高田純次の深層に〈複雑〉にリンクされていた文化的記憶。