さいきん『ファイナルファンタジーシアトリズムカーテンコール』という音楽ゲームをずっとやっていて、以前は『太鼓の達人』をずっとやっていたんですが、で、リズムゲームっていったいなんなのかってたまに考えていたりしていたんですが、ひとつは、身体がコントーローラーであることの発見だったんじゃないかと思うんですね。
それまでコントーローラーっていうのは、あくまでコントロールするための媒介物であって、身体-コントーローラー-ゲームっていう区分けがきちんとなされていた。でもその身体こそがリズムを聴き、判断し、押すコントーローラーそのものであると気づいた、それがリズムゲームだったんじゃないかとおもうんです。
身体=コントローラーによってなにが変わっていくかというと、ゲームっていうのはそれまで倒すべき敵がひとまずいて、それを倒していくというクエスト風の物語論的な要素が含まれていたはずだったものが、物語論がとっぱらわれた世界、物語論がなくても、反応と応答の快楽そのものがゲームになる世界、それがリズムゲームの世界なんではないかとおもうんです。






ちなみにリズムゲームがきちんと認知され普及したのがプレイステーションの『パラッパラッパー』だとおもうんですが、それが出たのが1996年で、『新世紀エヴァンゲリオン』がちょうど放送されていた1995-1996年とかぶっています。
リズムゲームとは、物語論的要素が失われた世界、つまり倒すべき敵がうしなわれた世界、無効化された世界、わたしの身体のありかたをケアする世界だとするならば、おなじく『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメも、倒すべき敵がよくわからなくなっている世界、むしろ自己の配慮が主題化されていく世界と似通っているといえるようにおもうんですね。
1996年がどういう年だったのかを歴史的にふりかえるならば、前年の1995年に「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」という大きな容易に対象化して語ることができないようなことが起きています。
そういう対象化を模索するような状況、むしろ自己への配慮が特権化されていくような時代のひとつのありかたとして、リズムゲームがうまれてきていたのではないかとおもったりしました。