以前、こんなふうなことばをわたしは聞いたことがある。
「わたしはおもうのですが、もしわたしが誰かに質問したいことがあって質問するとするならば、たくさんの質問をするか、あるいは、たったひとつの質問しかできないかのどちらかかだとおもうんですよ」と。
ここでわたしがすてきだなとおもったのは、このひとが、「たくさん質問すること」と「たったひとつしか質問できないこと」を並べたことだ。
つまり、「たくさん質問する」ということは、そのひとにいっかいだけ決定的に質問できるかもしれない、唯一無二の、超越的な質問する機会を逃すということになるかもしれないということだ。もちろん、その唯一無二の質問をしてしまえば、たくさん質問することもできなくなるかもしれない。この場合、ふたつの〈質問〉はおなじでない。たくさんできる質問は、おそらくじぶんという主体をかためるための質問だ。安心するための質問である。
しかし、たったいっかいしかできない質問は、わたしという主体が壊れてしまうかもしれない決定的な質問である。けれども、それだけのぎりぎりの主体で質問することによってあいてとたったいっかいかぎりの、歴史を超えた関係性をむすべるかもしれない。むすべるかもしれないが、わたしは、わたしやあなたは、わたしたちは、こわれてしまうかもしれない。
寺山修司はかつて、「わたしはなんにもなりたくはないが、できるならばひとつの質問になりたい」と述べていた。また「質問は人生においてたった一度きりしかできない」とも。
わたしも、そうおもう。質問とは、すなわち、わたしを、それまでの・これからのわたしをすべて投げうつことである。問いかけるとは、そのようなことだ。だから、いっかいしかできない。いちどきりだ。やったがさいご、わたしが変わってしまう、変わらざるをえないこころみである。
でも、それでも、ひとは、ときに、質問しなければならないこともあるだろう。自分や、世界の可能態をすべて捨ててでも、歴史上たったいっかいできる質問をしなければならないときがあるだろう。答えはすべて出そろっている。最初から答えはすべて出そろっている。答えはなんどでもやってくる。でも、質問はたったいっかいきりしかできない。そのとき、わたしはわたしにはじめてであうかもしれない。そして、わたしがわたしにであえるのは、おそらく、そのいちどきりなのだ。すなわち、
いや、すなわちなんてない。
「わたしはおもうのですが、もしわたしが誰かに質問したいことがあって質問するとするならば、たくさんの質問をするか、あるいは、たったひとつの質問しかできないかのどちらかかだとおもうんですよ」と。
ここでわたしがすてきだなとおもったのは、このひとが、「たくさん質問すること」と「たったひとつしか質問できないこと」を並べたことだ。
つまり、「たくさん質問する」ということは、そのひとにいっかいだけ決定的に質問できるかもしれない、唯一無二の、超越的な質問する機会を逃すということになるかもしれないということだ。もちろん、その唯一無二の質問をしてしまえば、たくさん質問することもできなくなるかもしれない。この場合、ふたつの〈質問〉はおなじでない。たくさんできる質問は、おそらくじぶんという主体をかためるための質問だ。安心するための質問である。
しかし、たったいっかいしかできない質問は、わたしという主体が壊れてしまうかもしれない決定的な質問である。けれども、それだけのぎりぎりの主体で質問することによってあいてとたったいっかいかぎりの、歴史を超えた関係性をむすべるかもしれない。むすべるかもしれないが、わたしは、わたしやあなたは、わたしたちは、こわれてしまうかもしれない。
寺山修司はかつて、「わたしはなんにもなりたくはないが、できるならばひとつの質問になりたい」と述べていた。また「質問は人生においてたった一度きりしかできない」とも。
わたしも、そうおもう。質問とは、すなわち、わたしを、それまでの・これからのわたしをすべて投げうつことである。問いかけるとは、そのようなことだ。だから、いっかいしかできない。いちどきりだ。やったがさいご、わたしが変わってしまう、変わらざるをえないこころみである。
でも、それでも、ひとは、ときに、質問しなければならないこともあるだろう。自分や、世界の可能態をすべて捨ててでも、歴史上たったいっかいできる質問をしなければならないときがあるだろう。答えはすべて出そろっている。最初から答えはすべて出そろっている。答えはなんどでもやってくる。でも、質問はたったいっかいきりしかできない。そのとき、わたしはわたしにはじめてであうかもしれない。そして、わたしがわたしにであえるのは、おそらく、そのいちどきりなのだ。すなわち、
いや、すなわちなんてない。