《跳び箱の上はあの世のやわらかさ》
《紙たしてたしてキリンの首を画く》
《掃除機を引いて花野に来てしまう》

草地豊子さんの川柳のおもしろさを語るときにどう語ればいいのかをかんがえたときに、それは《逸脱》ではないかとおもうことがあるんですね。
もっといえば、逸脱することによって、逸脱することによってしか、たどりつくことのできなかった《場所》ではないかと。
たとえばうえの句も、《花野に来てしま》ったんですね。しかも《掃除機を引》きながら。
ここであらためて掃除機についてかんがえてみると、掃除機とはじつは掃除をする機械のことではなく、記号的にはわたしたちの生の空間を限定づける装置だったのではないかとおもうんです。
掃除機をひきずりはじめた瞬間、わたしたちの生きる場所は記号的に限定されてしまう。掃除機をもってわたしたちが草原や公園にいくことはないから。
でもこの句の語り手は掃除機をひきずったまま花野まできてしまった。しかし、そうした日常にある記号空間を打ち破ることではじめてみえる《風景》もあるし、もしかするとあえてそこまでしてきてみなければならない《記号の風景》というものもあるのかもしれない。

ちなみに染野太朗さんにこんな短歌があります。

《ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ》

これは逆に掃除機によって限定される記号空間を逆手にとって歌った短歌で、掃除機に対する関数的わたくしの存在としてのわたしの孤独を歌ったうただとおもいます。
つまり掃除機をもったときひとは掃除機とともに生きられる場の運命をともにするのですが、しかし掃除機はそういった場を限定づける存在でありながら、わたしのおもうままにはならない。それはもちろん、それがひとではなく、掃除機だからです。
だから歌の語り手は孤独なのですが、この孤独をまた裏返すと、掃除機をひきずって花野にたどりついてしまった草地豊子の句にたどりつくかもしれないとおもうんです。

掃除機とは、こんなふうに場の詩学を提供しつつも、わたしたちに場にまつわる実存や風景を生産させ、あるいは喪失させていく装置なのかもしれません(だからこそ、アメリカの作家レイモンド・カーヴァーが《掃除機》を効果的に小説において用いているのも関係のないことではないとはおもう)。
しかしいまやルンバは自律的にうごめいていくのであり、その意味ではあらたに掃除機によって創出される《孤独》をかかえこんでいくのだろうともおもっています。それでもわたしたちはいきていくかぎりは青い袋をひきずって。

《この世とは青い袋のようなもの》