このかんじ、ドラえもんの「最終回」ともいわれた、「さよならドラえもん」の感じにとてもよく似ているなっておもいました。
藤子不二雄のマンガの《感覚》というか《気分》に、「満たされた孤独」っていうのがあるようなきがするんです。それはかなり、あたたかいですがシビアなものです。
たとえば、『笑うセールスマン』の話のおとしかたもそうですよね。願いをかなえてあげるので「満たされ」はしますが、それは最終的に過剰でいびつなかたちでかなえられ、世界から切断されたかたちになる。満たされた孤独。
かんがえてみれば、ドラえもんもそうだとおもうんです。よく揶揄されることでもあるけれど、のび太はドラえもんがいるせいで「成熟」できないわけです。満たされはするんですが、「成熟」のきっかけをドラえもんによって簒奪=剥奪されてしまう。志賀直哉の「小僧の神様」みたいに(ドラえもんはまさに「のび太の神様」です)。

だから、藤子不二雄の描く世界ってとてもこわいとおもうんですよ。
たとえば「満たされない孤独」ならひとはこれじゃだめだとわかるので、他者とのつながりをもとうと意志し、その状況からなんとか抜けようとするんです。つまり、自分に対してじぶんにむきあえる。そこには再帰性がちゃんとあって、対自性から対他性になれるチャンスがある。満たされない=不満、ってそういうことですよね。
でも、満たされた孤独というのは、じぶんとむきあえるきっかけがなくなってしまう。状況の「つっかえ」なり「摩擦」がまったくない状況っていうのはそういうことだとおもうんです。再帰ではなく、回帰するしかない。ずっとその場で循環しつづけるしかない。
ドラえもんの歌で、空を自由にとびたいなー。ハイ!タケコプター!!
という歌詞がありますが、そこでタケコプターをほんとは安易に出しちゃだめで、空を飛びたいならすげえ痛いけどおまえひとりでとべよ、って
浅野いにおみたいに言わないとだめなんですよ。痛みがあるからこそ(もしくは痛みをうけいれられる主体を自覚できるからこそ)、ひとは成熟できるとおもうので。
だから、ドラえもんは飛べないタケコプターをわたすべきだったとおもうんです、きっと。