500回以上はみている
大好きな映画。

フェリーニの「81/2」や
ウディ・アレンの「スターダストメモリー」
のように<表現することの苦悩を物語>にしたときに
一様に不合理の理というものが
出てくるのはおもしろいと思う。
今までことわり立てて物語をつくってきた意識下に
かざ穴をあけてためこんでいた無意識を
一気に噴き出すような感じだ。

監督による監督のための映画って
(まあ、メタシネマっていってもいいんだが)、
たけしも「監督バンザイ」つくってたよね。
トリュフォーなら「アメリカの夜」。
ヴェンダースなら「ことの次第」。
アンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」も
近いものがある。
「81/2」は
カオスはカオスで混乱してもいいのだ、
と物語はしめられ、
「スターダスト」は
それでもやっぱりぐだぐだ悩み続けるよ、
という風にしめられている。
物語が異界へのアクセスという
構造を前提にするなら、
「表現者による表現者の、
表現できないことを表現する物語」は、
無意識という異界への
アクセスということになるのだろうか。


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