自殺されるなんて
ほんとうにつらいことなんだよ。
こんなにも陽は輝いて、
世界はやさしさに満ちているのだから
わたしのために生きてくれないか。



男は、死のうとしている。
理由は、わからない。
彼は、自分の死を完遂してくれるためのひとを
さがしている。
でも、なかなかみつからない。
男は、砂塵のなかに
ひとり、座りつくす。
イランの不安定な主体は、
ヨーロッパのパサージュ=アーケードを
ふらつく遊民(フラヌール)を挑発している。

男はやがて偶然のせた老人から
桜桃の味のエピソードを聞くこととなる。
それは、ひかりあふれる
まばゆい生の味だ。

カメラは、物語の最初から最後まで
ほぼ車内に固定されている。
ヨーロッパ映画の心理のたゆたいは
鉄道という装置によってなされていたが、
イランのキアロスタミは、
蛇行するあぜ道を走る車内に
心理過程の変遷の隠喩をおいた。
それがまだ舗装のゆきとどかない
でこぼこの「あぜ道」を走ることが
一筋縄ではいかない「意識」のノイズを
表象する。

それはたとえオリエンタリズムが
まじろうとも、西欧映画のまなざしに
慣れたものにとっては、とても画期的なことだった。

彼の映画は、いつだって
「蛇行」という主題がでてくる。

それはこれまで西欧が整備された一本道の上で
心理描写を重ねてきたことに対して、
「脱臼」作用をもたらすものだった。

自殺という主題を扱いながらも
決して、なぜ自殺したいのかを問わず、
省略的な語りで物語を終始一貫させ、
説明をあえて落としながら
くねくねと蛇行走行の語りをみせるのは
とてもキアロスタミらしい 。

死にたくなるたびに観ているので
おそらくは60回以上は
みているんじゃないかな。
そして、
いまも、こうして、また。
風の吹くままに、
オリーブの林を抜ければ、
人生は、つづく。