焼肉とそうめん、今の気分はどっち? ブログネタ:自分、焼肉派です!!っていうような口癖のやつはすぐに俺に言え 参加中

には、人間の生活といふものが、

見当つかないのです。(原稿)

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自分には、人間の生活といふものが、

見当つかないのです。(活字)





じつは「人間失格」は

「私」の物語ではなく、

「自分」の物語なのである。


一人称はかたくなに

「自分」に統一されている。

これはどういった事態なのだろうか。


そもそも

「私」で書き続けてきた「私という大きな物語」を

書きつづってきたのは、太宰自身ではなかっただろうか。


まず「自分」とはとうぜんのことながら

「私」のことではない。

だから、「私/公」という二項対立が発生しない。

そもそも、「自分は陸軍間宮少尉付属山田三等兵でありますッ!!」

などのように、軍隊用語でよくつかわれた

あらたまったいいかただった。

つまり、「私」の領域に属しながらも、

それをあえて「無私」して、

「公」にいる「私」を志向する主語なのである。

ちなみに、

「私」という主語は近世においてヲンナことばでもあったので

ジェンダー構造としては「男/女=自分/私」という

二項対立がたてられたりもする。


また「自分」とは

再帰代名詞だ。

「彼/わたし/あなたは、自分を救えますか?」

のように、対象化されつづける「私」をさすことばなのである。

わたしは、ふたたび・わたしに・かえる、のだ。


つまり、

「自分」とは、無私化された「わたし」のことであるとともに

「私」にひきこもることなく、「公」の領域において

対象化されつづける「自分」のことなのである。

そういった「ワタシ」のありかたを、

大庭葉蔵は、いきようとしている。

いや、手記を書いている「わたし」が「自分」として

語り直しているのだから、

「自分」として、いきなおそうとしているのだ。


大庭葉蔵は、

少なくとも、「私」に隠滅することを

願ってはいない。

「自分」として、再帰し続ける、

わたしの廻廊のような枠組みを

選んだ。

それは実は、

「はしがき」の「私」との意味合いにおいて

重要なシニフィアンとなる。

手記が「自分」で統一されていれば、

とうぜん「はしがき」にあらわれた「私」は差異化されることとなる。

それはもしかしたら、自省することをともわなず、

他人を他者化することもできなかった

ピーピングトムへの批判ではなかったろうか。


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