たい焼きって、どこから食べますか? ブログネタ:たい焼きのはしが気になるなら、清水邦明か俺に言え 参加中

私はこれまで、

こんな不思議な男の写真を見た事が、

やはり、いちども無かつた。(原稿)

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私はこれまで、

こんな不思議な男のを見た事が、

やはり、いちども無かつた。(活字)




人間失格の「はしがき」とは

なんなのだらう。

「はしがき」を物語として読めば

どうなるのだらう。


「はしがき」の冒頭は、

写真を見たことがある

だった。

「はしがき」の最後の一行が、

顔を見たことがなかった

だ。

はしがき、の物語とは、

「見た」男が、「見えなく」なっていく物語だ。

しかもそこには、

写真、から、顔、への移行がある。

焦点化されているのは、

とらえられない、見ることのかなわぬ「顔」である。


わたしたちが、

「顔」を写真でとられるのをいとうのは、

「顔」とは、読解されるべき場所だからに

ほかならない。

写真をブログにのせれば、

その顔のテクスチャーは

すぐに読解対象になるだらう。

読まれた顔は、表情(かお)となる。

それが見ることの完了でもある。

ところが、

「私」は「見る」ことの

不可能性にでくわしている。

写真をみても、顔をみつくすことが

できないのだ。


わたしたち読者は

人間失格という物語のラストの一行が

「葉ちゃんは、いい子でした」

という、

見ることとは無縁の領域で収束=終息していくことを

しっている。

人間失格とは、

「私」が見損ねる物語なのである。

見る/見えないとは無縁の領海で

大庭葉蔵は、位置づけられる。

視線ではなく、

人間は、ことばの網状に

いきる。


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