今までで一番たくさん見た映画は?
ブログネタ:今までで一番たくさん見た映画が、ベニスに死すだったら、ボガードか俺に言え
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2009年8月3日 - 2009年8月9日の読書メーター

読んだ本の数:31冊

読んだページ数:8008ページ



時の墓碑銘(エピタフ)
時の墓碑銘(エピタフ)


朝日新聞の連載を毎週たのしみにしていた。ウィトゲンシュタインについての回は、彼の変態と魅力が思う存分描かれている。わたしはこんなにもいとおしくウィトのことをおもったことはなかった。でも、こういうのって新聞というメディアの上で、ふっと生活のエアポケットのなかにおいて読むものなんだな。ことばと、どのように出逢うかってたいせつなことなんだ。メディアで損ねている場合もあるんだ。「ぼくの人生は、ぼくの書きたい詩だった」

読了日:08月09日 著者:
小池 民男


ウッシーとの日々 (7) (BJ comic essay)
ウッシーとの日々 (7) (BJ comic essay)


ウッシーの日々、ではなく、ウッシー「と」の日々、であることが重要。吾輩は猫である、ではなく、吾輩「と」猫である、にすることで〈と〉の力学圏に視点をおこうとしている。その〈と〉のポジショナリティこそが、はたの魅力だと俺は思う。

読了日:08月09日 著者:
はた 万次郎


北海道青空日記 (集英社文庫)
北海道青空日記 (集英社文庫)


緻密なマンガよりも、空疎なマンガの方がマンガ的なのではないかと思うようになってきた。マンガは情報量を抜けば、抜くほどマンガ的になっていく。マンガは絵画ではない。映画でもない。アニメでもない。「北海道青空」というのはNHKのようにあざとい演出だ。北海道や青空のファンに対して挑発的だというのが本書を読めばわかる

読了日:08月09日 著者:
はた 万次郎


大江健三郎小説〈8〉『河馬に噛まれる』と後期短篇
大江健三郎小説〈8〉『河馬に噛まれる』と後期短篇


「もうひとり和泉式部が生れた日」は、大江の物語論を考える際に重要な指標となる。彼はここで、近代小説のナラティヴによって失われた「神話=物語」を持ち出している。それはいかに近代小説がいかに物語を抑圧し、分断していったかの問いでもある。物語は、パッケージングし「そこね」る。無意識のとぐろを巻く言語の渦は容易に分断=接合することがかなわぬどころか、無人称的な透明語りも許さない。ここに、サーガの始原から近代小説への根本的疑義がある。と思うんだけど、消化不良です。大江のことがよくわからない

読了日:08月08日 著者:
大江 健三郎


歴史 (日本の名随筆)
歴史 (日本の名随筆)


鴎外、安吾、丸山真男に阿部謹也と「ヒストリカル」な面子が召喚されるものの、歴史とはおそらく「歴史的」になることよりも、「脱=歴史的」になることの方が「歴史的」なのであり、その意味においてはただ単に歴史的なエッセイばかりが集まっているのでものたりない部分が。それにしてもこのシリーズは高校生の頃は宝の山だったな

読了日:08月08日 著者:



サン=テグジュペリ伝説の愛
サン=テグジュペリ伝説の愛


完全なファンブック。前からサンテックスの恋文を読みながら、ナショナリスティックな戦争語りについてはとても気になっていた。星の王子が「美化」されすぎたことへの功罪でもある。戦争の記号論は「こころ」と「美化」につきる。それでも、コンスエロへの恋文はあまりに美しく、すばらしい。好きなひとに、この恋文を読まずして、いったいなにを読んであげるというのか。新鮮な泉のようなあなたがいなく。ぼくはさびしい。/ぼくは、ほんとうにほんとうにつかれている。それでも、ぼくは戦争にいく

読了日:08月08日 著者:
アラン・ヴィルコンドレ


女のエピソード (河出文庫)
女のエピソード (河出文庫)


歴史軽チャー本とは、一線を劃す本。「女」を蒐集する筆者自身のジェンダーアイデンティティがそもそもたゆたっていた。こういう本って、マッチョな視点か、ルサンチマンのうらがえしのやうな女をさげすむ本ができあがるが、そういった本ともいっせんをかくしているのも澁澤の魅力だ。

読了日:08月08日 著者:
渋澤 龍彦


桜の園 (岩波文庫)
桜の園 (岩波文庫)


誰よりも、何よりも過去への妄執をいだいていた人間はロパーヒンであった。現在から抑圧され続けた過去と過去を抑圧し続けた現在が、その一瞬にして「桜の園」において線を結ぶ。過去の亡霊が、現在の墓場からよみがえり、ロパーヒンのもとに一括して昇華される。 桜の園からはすべての生者がはじきだされ、死を約束された者(フィールス)だけがその場にたたずんでいる。彼は、もう、この園を抜け出ることはできない。錠はおりているのだ。

読了日:08月07日 著者:
チェーホフ,小野 理子


桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)
桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)


資本の力によって、没落貴族の思い出も郷愁も過去も生活も人生もそのすべてを買収したのがロパーヒンだ。彼が、父親殺しを達成できるのは、桜の園を切り崩すその瞬間にほかならない。つまり、ここで買収されているのは<時間>なのだ。生きられた時間、生きられている時間、生きられるであろう時間が、資本によって買収されたのだ。これは生活が資本によって譲渡される物語であり、そうして生活の買収によって先祖殺しを行ったひとりの成り上がりの物語なのである

読了日:08月07日 著者:
チェーホフ


コミック 文体練習
コミック 文体練習


高野文子や大友克洋など、物語言説(構図)が物語内容を決定しているマンガのサブテキストに。文体とは、つねに・すでに不透明なメディアのことにほかならない。マンガは、映画にも文学にもできない「マンガの器」でこそ、できることをやればいいのだから、ストーリーなんてぶっちゃけどうだっていいものなのである

読了日:08月07日 著者:
マット マドン


眩暈(めまい)
眩暈(めまい)


その本の感想を書ける人間がうらやましいときがある。ムージル『特性のない男』とか、ビューヒナー『ヴォイツェク』やオネッティ『はかない人生』、ピンチョン『V』など。で、この本もそうだ。巨大なまだ生きているとりとりしい七面鳥を電子レンジで簡単調理してくださいといわれているようなそんな「感」じはあっても、どうしても「想」いが出てこない、のみならず、読書ってこんなにつらいものだったっけ?とひしゃげそうになった。こういう本をすぱっと感想いえるひとってかっこいいよなあ

読了日:08月07日 著者:
エリアス カネッティ


しんきらり (ちくま文庫)
しんきらり (ちくま文庫)


めまぐるしいカメラワークとは裏腹に、淡く線の細い筆致と省略的な語りで「おんな」の抑圧とその表出が、きっちりと描かれている。ネームと漂流する視線が生かされたマンガであり、「母」≠「女」という「をんな」の孤独な内面のありやうをしずかにはげしくえぐりだしている。母と女の齟齬からくるの身体論も忘れてはいない。生きてるうちに、こういうマンガとあとどれだけであえるんだろうかと急に不安になる

読了日:08月06日 著者:
やまだ 紫


秘宝耳 (朝日文庫)
秘宝耳 (朝日文庫)


ドラゴンヘッドを売って買った本。後悔が、ない。ナンシーは、初期はけっこう版画がへたくそだったが、これを読むと「かなり」上達している。で、やり続ければこそ、もあるが、むしろ、やり続けていくなかでナンシーが画面取り込み技術というツールをみつけるなどの「版画メディアツール」の発見が大きかったのだと思う。継続は、ツールを発見させる。それを、「力」というのだ

読了日:08月06日 著者:
ナンシー関


諸怪志異 (1) 異界録    アクションコミックス
諸怪志異 (1) 異界録 アクションコミックス


諸星の描く人間は、おどろいても、怒っても、泣いても、セックスしていても、生きてても、死んでいても、みな表情が死んでいる。幽明の境界線がないのだ。その「死に顔」のたえで織りなす「異界」との交通譚。「木がめくれる」「身体がうらがえる」表現をたんたんとやってのけるのがすごいよ

読了日:08月06日 著者:
諸星 大二郎


映画はもうすぐ百歳になる (水星文庫)
映画はもうすぐ百歳になる (水星文庫)


映画と鉄道のリンクが、「アウラを帯びた時間」から「凡庸な時間の創出」への変成であるという指摘にまずおどろき、それから「政治的」なマルクス兄弟の正統な読解手続きに喜び、ましてやシュミットの『トスカの接吻』を鮮やかに分析対象として俎上させるその手際に舌を巻いた。もっと、はやく読めばよかったよ。断章スタイルで表象としての映画史を一気呵成にかけぬける。終わるというだけで、あらゆるフィルムはすでにハッピーエンドである。

読了日:08月05日 著者:
四方田 犬彦


たのしいムーミン一家 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス
たのしいムーミン一家 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス


けっこうムーミンだからって英語をなめてかかってたら、しっぺがえし喰らったんだ。ニョロニョロも「肉食系」の凶暴なやつだったんだ。スナフキンなんかよりも彗星鬼がかっこいいんだ。ムーミンを「こども」が読んでもつまんないのは、へたに「愛」や「平和」「正義」といった概念に回収させないからだ。モランは、いつまでもわけもなく差別されつづけるしな。

読了日:08月05日 著者:
トーベ ヤンソン


かわいいダンナとほっこり生活。
かわいいダンナとほっこり生活。




読了日:08月05日 著者:
細川 貂々


世界の美術〈第19〉ゴッホ (1963年)
世界の美術〈第19〉ゴッホ (1963年)


社会学者エニックによるゴッホ表象の研究があるが、たしかにゴッホって解説読んでても、絵画テクストそのものよりも、すべてが「狂気」という賭金をめぐる言説になっている。ましてやゴッホは切り取った「ミミ」というすばらしいカノンも残した。熱狂的ファンが多ければ多いほどテクストからは遠く離れるのはどこの世界も似たり寄ったりだったりする

読了日:08月05日 著者:



ガラス玉演戯
ガラス玉演戯


読んでいる間、ほんたうにつらかった。どうしてもヘッセと仲良くなれなかった。いつか仲好くなれるかと思い、夏が過ぎ、秋も去り、気づけば雪の下から芽吹きさえみえていた。わたしはけっきょくヘッセとは仲良くなれなかったけれど、ユングと仲良くできるひとなら愛読書になりうるかもしれない。そういうセカイだ。わたしはユングともよく殴り合いのけんかをしていた

読了日:08月05日 著者:
ヘルマン ヘッセ


永沢君 (イッキコミックス)
永沢君 (イッキコミックス)


吉田戦車のかわうそもそうだけど、なにげなくさらっと書いた出オチキャラが読者とともに成長していくことは、ままある。でも、さくらももこの精神構造は、まるこよりも永沢くんに近いものがあって、で、永沢くんとか野口さんを描くことにとよって、マイノリティな自分自身のアンチ青春時代を補完していたようにも思えるんだな。

読了日:08月04日 著者:
さくら ももこ


洗脳ごっこ―洗脳する人される人
洗脳ごっこ―洗脳する人される人


本書の眼目は、著者が実際に「ヤマギシ」に入会し、その「洗脳」の手口を実体験する、というのがいちばんうま味だとおもう。ただし、ヤマギシを単なる消費リピーターとして「需要=受容」している信者ではない消費者もいるわけで、カルトとひとくくりにはくくれない面もあるんだけどね。たとえば、創価学会なんてのもニコニコというメディアにかかれば、ひとつのポピュラー・カルチャーとして消費されている

読了日:08月04日 著者:
藤井 康宏


チェーホフの戦争
チェーホフの戦争


ワーニャのだるい身体とロパーヒンの加速する身体という身体論が秀逸。たしかに規律訓練化したモダンな垂直する身体に、寺山のようなアングラでポストモダンなぐにゃぐにゃした身体を脱領域化するところにワーニャ・ロパーヒンの身体はある。

読了日:08月04日 著者:
宮沢 章夫


ぼく、オタリーマン。2
ぼく、オタリーマン。2


オタクというものが、ピューリタンのような「行(ぎょう)」から、「キャラ萌え路線」に走っていったので岡田ことオタキングは、「オタク・イズ・デッド」の講演を行ったんだろうな、とあらためて思った。でも、そのおかげで「おたく」は「喪男」からすこしだけ「モテ男」になったのかもしれない。そういう風にアイデンティティをねじふせ、撹乱させていくのはアリである。バトラーだって、それがアイデンティティ・バトルの方法だといってたはずだ

読了日:08月04日 著者:
よしたに


嵐が丘(上) (岩波文庫)
嵐が丘(上) (岩波文庫)


微細な差異をはらみながらも嵐のような愛が「リフレイン」されていく。くりかえし、くりかえし、ひとは愛するし、愛されつづけ、なぐり、なぐられ、うらぎり、うらぎられ、もとめあう。やっぱ、任侠だわ。愛というデ・ジャヴ。愛する I (アイ)の輪廻転生。嵐が丘という涅槃

読了日:08月04日 著者:
エミリー・ブロンテ


チェーホフ (岩波新書)
チェーホフ (岩波新書)


トルストイとドストエフスキーという対極にある二人が「表象の嵐」として過ぎ去ったあとに、取り残されたようにチェーホフが生まれる。ぼくはチェーホフのコンセプトは、「にもかかわらず」の哲学であったと思う。憂鬱で生きるのが苦しく、自分は取るにたらない存在で、過去も現在も未来もうとましい。「にもかかわらず」、生きるのだ。ワーニャもロパーヒンも、そうだ。父の不在、さかさに届く手紙=呼びかけ。それでも「かれら」は生きぬき、いま・ここに生きている「われら」という他者に対してたえず呼びかけを行っている。

読了日:08月04日 著者:
浦 雅春


覘き小平次 (角川文庫)
覘き小平次 (角川文庫)


京極は、ずうっと「いびつな視線」について描いてきた。ミステリというよりも、むしろ「いびつな視線」のありかたを醸成するには、ミステリという「匣」や「理」がもっとも受け皿としてよかったというような感じだ。もちろん、これは京極得意の心理ミステリである。けれども、「いびつな視線」の到達点でもある。覘き小平次をもっとも畏れていたのは、ほかならぬ民谷伊右衛門だったのだから。いびつな視線サーガは、続く

読了日:08月04日 著者:
京極 夏彦


悪童日記 (ハヤカワepi文庫)
悪童日記 (ハヤカワepi文庫)


本を読む人に悪い人はいないっす、と読者性善説をとなえていた「元気のいい」ひとがいたので、まっさきにこの本をすすめた。

読了日:08月03日 著者:
アゴタ クリストフ


高校生の古典文法 増補新版
高校生の古典文法 増補新版


高校に入学すると同時に、活用形を身体的にたたきこめとかいわれるが、予備校にいくと実はそれは身体論的課題などではなかったのだということが「わかる」。その意味で、高校とは、身体の規律訓練の場所なのだから、「高校生の」古典文法、というのは正解。「受験生の」では、ない。

読了日:08月03日 著者:



われら (岩波文庫)
われら (岩波文庫)


文学とは「視線」だと思う。視線についての視線であるのが「文学」で、だからすべての文学はひとえに「メタ視線論」といえるのではないかと思うことがある。透明な都市に居住することで視線の網状組織にいきながらえるひとびとをみながら、そんなことをかんがえた。「われら」とは「われら=読者」のことでもある

読了日:08月03日 著者:
ザミャーチン


人間とは何か (岩波文庫)
人間とは何か (岩波文庫)


ユーモアと残酷さは紙一重であって、ユーモアの「生(き)」の材料っていうのは、むしろ「人間への冷徹な視線」にある(フロイトとは逆の考えだけど)。漱石もブローティガンもそうなのだが、その「残酷性」をどう転がすかが「作家」としての賭金になる時期がどうしてもあって、トウェインはけっきょく晩年にそれが怒涛のように流れ込んできた。

読了日:08月03日 著者:
マーク トウェイン


茜いろの坂 (新潮文庫)
茜いろの坂 (新潮文庫)


太宰が情死して、ぽっかり空いた朝日新聞の連載のあとがまを受け継いだのが船山だった。実は、平林たい子の予定が、逃げたんである。で、船山は、太宰へのオマージュとともにドストエフスキーのさまざまなテクストを太宰や実存主義と溶解させあいながら、焼け野原となり荒廃した東京を亡霊のように歩きながら、それでも己の存在を「ジ・エンド」にたくすというとんでもない連載小説を書いてのけた。そこにはスタヴローギンもいれば、マルメラードフもいる。マルメラードフは、岩でも崩れ落ちるようにソーニャに恋をする。成就しようもない卑屈な恋だ

読了日:08月03日 著者:
船山 馨