今まで何回「恋」をした? ブログネタ:太宰に何回「恋」をしたかわかったら、俺に言え 参加中

部屋の壁がところどころ崩れ落ちてゐるのが、

その写真にハッキリ写つてゐる(原稿)

          ↓

部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちてゐるのが、

その写真にハッキリ写つてゐる(活字)



3枚目の最後の写真は、

「無表情」の写真である。

それどころか、美貌は「凡」退し、

あまりに、平凡なので

印象さへ、つらまえることができないと

「私」は語る。

「私」は、以上、3枚の写真イメージを

線状につなぎ、差異化していくことで、

「手記」をさきどりして、枠組みを統括したことになる。

「皺くちゃの猿」⇒「技巧的微笑」⇒「無表情」。

「私」は読者に先見を与える。

『人間失格』はひとりの人間が、

他者=人間と共同生活を営むために、

「笑う」という技巧を身につけながらも、

それを喪失する物語なのだと。

笑おうとし、笑い、笑わなくなった男の物語なのである。


太宰治の「数」に対する意識、

「富嶽景」や「八十八夜」などは

村上春樹が「数」を象徴的に使うように(3つの乳房、4本の指)

それ自体興味深いことではあるけれど、

「ところどころ」から「三箇所」と書きなおされることによって

「私」の「微細な視線」というものが

浮き彫りにされてくる。

19世紀末に膾炙し

写実絵画にとってかわることとなった写真メディアは、

いまや、読解するべきテクストそのものと

なっている。

つまり、記録ではなく、

記憶形成の装置になっているのだ。

「私」は3枚の写真を

並べ(統語)、意味付ける(範列)ことで

「大庭葉蔵」の先見的なイメージをあたえることを

こころみている。

それは、『人間失格』の読解への

視線教育でもあるとともに、

この書物自体のいちばん最初に付録された

「著者 太宰治」の著者近影への

仔細な観察主体になることを読者に要請してもいるのだ。

わたしたち読者が知るのは、

少なくとも「太宰治」の著者近影写真は、

サブテキストとして、参照し、読解し、

記憶するものである、ということだ。

それは、「私」が美醜の価値観をその賭け金と

しているように、

読者が太宰治をほんとうに読めているかどうかの

賭け金にもなるかもしれない。

小説を読む行為が、

書物態との遊戯へといざなうこともある。

しかし、

それにしても

この視線をかわそうとはしない

「太宰治」という著者近影は

どうしたことなのだろう。

太宰治というこの男、

読者にたいし、

視線をそらしつづけることにより、

読解されぬよう、

シニフィアンの亡霊となることを

あたかも、のぞんでいるようなのだ。


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