ブログネタ:大庭葉蔵だったら、みうらじゅんか俺に言え
参加中
とにかく、おそろしく美貌の学生であった(原稿)
↓
とにかく、おそろしく美貌の学生である(活字)
「私」が「ある」を志向するときに、
「私」のいま・ここへの志向性があらわれる。
「私」は、いま・ここの時点から、
葉蔵の写真を眺め、
手記を必然的に過去へと
抑圧しようとしている。
葉蔵は、
いま・ここにいる「私」や読者にとって
写真=イメージ(想像界)と手記=テキスト(象徴界)
に幽閉された「囚人」となる。
葉蔵にとっての
現実界(インフラ)は、
実は葉蔵がともに・いきようとし、
いきられなかった周囲の「人間」にあったのではなく、
「私」の「はしがき」と「あとがき」という視線であり、
さらには読者からの視線であった。
葉蔵は、
実は過重な視線にさらされたあとで、
または、さらされながら、
テクストをつむいでいることになる。
葉蔵の時間は、
わたしたちの時間に対して
つねに・すでに
遅延している。
これは『斜陽』の和子とは、
異なった時間意識を生んでいる。
『斜陽』もまた「手記」であるが、
あの「手記」には
拘束具がなく、読者は
和子の手記とともに
その時間をともに・いきることもできる。
「私」によって
たくみに読者の視線のありやうは
醸成され、操作されている。
- 直筆で読む「人間失格」 (集英社新書 ビジュアル版 11V)/太宰 治
- ¥1,470
- Amazon.co.jp