グラサンが似合う有名人は? ブログネタ:大庭葉蔵だったら、みうらじゅんか俺に言え 参加中


とにかく、おそろしく美貌の学生であった(原稿)

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とにかく、おそろしく美貌の学生である(活字)



「私」が「ある」を志向するときに、

「私」のいま・ここへの志向性があらわれる。

「私」は、いま・ここの時点から、

葉蔵の写真を眺め、

手記を必然的に過去へと

抑圧しようとしている。


葉蔵は、

いま・ここにいる「私」や読者にとって

写真=イメージ(想像界)と手記=テキスト(象徴界)

に幽閉された「囚人」となる。


葉蔵にとっての

現実界(インフラ)は、

実は葉蔵がともに・いきようとし、

いきられなかった周囲の「人間」にあったのではなく、

「私」の「はしがき」と「あとがき」という視線であり、

さらには読者からの視線であった。


葉蔵は、

実は過重な視線にさらされたあとで、

または、さらされながら、

テクストをつむいでいることになる。

葉蔵の時間は、

わたしたちの時間に対して

つねに・すでに

遅延している。

これは『斜陽』の和子とは、

異なった時間意識を生んでいる。

『斜陽』もまた「手記」であるが、

あの「手記」には

拘束具がなく、読者は

和子の手記とともに

その時間をともに・いきることもできる。


「私」によって

たくみに読者の視線のありやうは

醸成され、操作されている。


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