「なんて、いやな子供だ。」


『人間失格』は

「わたし」によって

はしがき→手記←あとがき

という「構成」がたてられている。


つまり、

大庭葉蔵の手記を編成=変成しようという

語り手がいるとともに、「力への意志」が

働いてもいるのだ。・


「私」が

賭け金としているのは、

「美醜」の問題である。


美醜に関心がないものなら、

葉蔵を「かわいい」と一括するが、

俗人ではない「わたし」には

葉蔵が「いやな」やつだと

ひとめみて、わかるのだ。


つまり、

「私」は「いやな男」の物語として

葉蔵の手記を、規定しようとしているのである。


ロールシャッハをもちだすでもなく、

視線というのは、

みずからのありようを

知らずうちに、いぶりだしているものだ。

たとえば、

誰かを嫌悪している人間は、

実は自分自身が隠蔽して嫌悪しているものを

認めたくないがゆえに、

それを投射し、なすりつけ、

その人間を嫌悪している場合が、おおい。

すくなくとも、高校倫理の

心理学の基礎として、そう習ったはずだ。


実は、「私」というのは

冒頭とラストにさらっと何食わぬ顔をして

出てきているが、

そうとうにバイアスをかけている

なかなかに豪胆な語り手なのである。

いちばんの「人間失格」を

任じていたのは

実は

葉蔵などではなく

「私」自身だったのかも

しれない。


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