私は、そのひとの写真を三葉、見たことがある。
(直筆原稿版)
↓
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
(活字版)
冒頭の、1行だ。
「ひと」を「男」に
変えることで、
この物語は、
男と女の物語になったとも
いえる。
「人間」を失格する物語だけでなく、
「男性」失格の物語でもあるのだ。
太宰治は、女性を「視点人物」にした
「女語り」がうまいが、
戦争中も「軍人」にはならず、
「戯作」を書き続けるなど
「男性規範」から、外れた人間だった。
「家庭」を規律していくという「主人」「夫」という
男性ジェンダーからもことごとく
外れていた。
いうなれば、「女々し」かったんである。
『人間失格』を読んでいると、
これはネットワーク間の齟齬の物語なんではないかと
思うことがある。
「ニンゲン」の失格というよりは
「人」の「間」に「いる」ことの「失効」を
描いているのだ。
最終的に、主人公は
「人間(じんかん)」というネットワークから
放逐されることとなる。
もはや、言語ゲームも通じない
世界の果てだ(カルモチンという誤配によって、それは象徴される)。
ともかく、
この物語は、
「男」が「男」でいられなかった
そういう物語である。
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