- ドラえもん (感動編) (小学館コロコロ文庫)/藤子・F・不二雄
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★★★★☆
これはもうぼくのなかで「最終回」です。
ジャイアンが夢遊病であると知ったのも衝撃だったけど
それはいいです。
のび太の最期は碇シンジより酷です。
シンジが、
気持ちのいい青空のもと、
皆に祝福されて、
僕は生きてていいんだ、
と自らの存在をことほいだのとは対照的に、
のび太はドラえもんのいなくなった世界に
「慣れる」
という言葉を選びます。
しかも「慣れると思う」という
「いつか・誰かが」みたいな
ぼんやりしたいいかたをするのです。
たとえばこれが、
のび太の周りにしずかちゃんやジャイアンやスネ夫がいて、
「仲間!」って感じで皆で笑いあってて、
それで空にドラえもんのイメージがぱっと現れて、
のび太が、
「ぼくはみんなといっしょに生きていこうと思う」
みたいなことだったら、
ベタだけど、ああよかったよかった安眠安眠
って思います。
その後の「だいじょうぶ」なのび太がみえますから。
でも「がらん」とした部屋のなかに
のび太が微笑みながらたたずんでいるさまは、
のび太のこころが「からっぽ」になってしまったことを
想起させ、「世界」に「慣れる/慣れない」という
実存的状況をひとりで生き抜いていかなければならない
そんなのび太を想像させてぼくはかなりつらくなりました。
「友情」でも「家族」でもなんでもテはあったはずなんですね。
「欠如の補充=修復」(ドラえもんの代替)が出来たはずなのに、
それをあえてしないで「欠如」をそのままにして
「欠如」に「慣れさせる」という形をとった。
ぼくにはいっしょに生きてく仲間がいるんだ、
だから、心配するなよ、ドラえもん
ってシンプルな終わりにしてくれれば安心できたのに。
「先」がぜんぜん見えないんですね。
だから、「のび太の死」を絵でもってあらわすと
こんな感じかなって思ってしまいました。
ぼくはこの最終コマののび太を読むたびに
ヤスパースの「限界状況」を想い出すんです。
限界状況っていうのは
挫折してしまうような壁、
試練に直面した状況のことなんですけど、
ヤスパースはそういう状況でこそ
自分のリアルな在り方、実存に
目覚めるっていってるんですね。
だから、ドラえもんがいなくなった限界状況のなかで
はじめてのび太は
類型化されたキャラクターから抜け出し
実存に目覚めた、と。
ここから続きは
つげ義春が書くべきだったのだと思うんだよ、
ばかやらうこのやらうそうしようたのしさう。