愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)/レイモンド カーヴァー
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 彼らはだれもが
 真剣に愛と救済を求めている。
 渇望し、希求している。
 運命がどれほど熾烈なものであれ、
 彼らはなんとかそこに
 出口を見出そうと努めている。
 そしてそのドアが愛という記号を
 通してしか開かないことを
 彼らは感じている>

    村上春樹「『愛について語るときに我々の語ること』」



<CARVER, WHAT WE TALK ABOUT WHEN WE TALK ABOUT LOVE>

 カーヴァー「愛について話すときに私たちの話すこと」


Terri said, "Now what?"

 テリがいった。「それじゃあ、どうする?」


I could hear my heart beating.
I could hear everyone's heart.

 私には、心臓の鼓動が聞こえた。
 みんなの心臓の鼓動が聞こえた。


I could hear the human noise
we sat there making,
not one of us moving,
not even when the room went dark.

 座っているときのひとがたてる
 物音が聞こえた。
 私たちの誰ひとり動かなかった。
 部屋が暗くなっても、
 誰ひとり動かなかった。

 *

 テリは言った。「さて」
 自分の胸がどきどき
 音を立てて鳴るのが聞こえた。
 僕はひとりひとりの心臓の
 鼓動を聞き取ることができた。
 そこに腰を下ろしている
 人々の体の発する物音の
 ひとつひとつを
 僕は聞き取ることができた。
 部屋の中がすっかり暗くなったが、
 それでも誰一人として
 動こうとはしなかった。

  カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」

 *

ものすごく大好きな短篇です。
カーヴァーベストに文句なく入ります。
読まないと、損です。

宗教を、
際限のないものとの関わり合い、
と定義するとき、
それは奇妙なことに
愛と非常に似かよった形を
とっているのだということに気づきます。
愛がいくら語られても、
語りつくせないのはそのための
ようが気がするし、
そういう際(きわ)をもたないからこそ、
裏返って、
賭金として浮上してくるのが、
そのひとが愛したか/愛されたかという
行為遂行のレベルなんだろうと
思います。
宗教も、語りつくせるやつよりも
信じたひとの方が<わかってる>っていう感じは
ありますよね。

この物語では
二組のカップルが愛についての
エピソードを語らっていくんですが、
愛を語るっていう作業は、
ある意味、余剰を生んでいきます。
百物語(巡り物語)みたいなもので、
語れば語るほど
言語化できない
部分が積み重なっていくので
そんな風な現実界めいた不気味なものが
蓄積されていく。
ところがこれも百物語みたいなもので、
語り合い=巡り物語というものは、
現実界を蓄積していきながらも、
語り手=聞き手関係の緊密な結びつきを
深めていくことで
大きな想像界をつくりあげていくことでも
あると思うんです。
共同=協同幻想の場というか。
ただ、それはしらけたひとがひとりでも
いると、いつまでも象徴界(言語)が邪魔をしてくる。
だから、装置がいるんですね。
百物語ならそれはロウソクといったものであり
(闇が追加されることで視覚的に立ち上げていく)、
この「愛を語るとき」においては、
その装置は麻薬です。ヤクです。
ヤクをやりながら、愛を語り合うことで、
現実界を過剰に含んだ想像界がたちあげられていく。
ラストの不気味さみたいなもんは、
それが共同=協同の空間でありながら、
いいようもないものに立ちあってしまっている過剰さ、
先にはすすめない圧倒的な停滞さ、
言語が触れることのできない過敏さ、
の集約がよくあらわれていると思います。
百物語なんかでもそうですよね。
ちなみに京極堂はこの逆のプロセスを
踏むように思います。
だから、百物語と同じことをやりながら、
プロセスを逆手にたどっていく。
こういう愛をモティーフとして使うときの
語り口のうまさにカーヴァーの骨頂があるんですが、
やはり「大聖堂(カセドラル)」のような
視覚障害という際のない装置を使ったときの
行き着く場所、言語が触知することのできないような場所に
たどりつくというその類似は
興味深いと思います。
あのときも、ヤクが出てきてますよね。
物語の大麻のありかたについて考えてみると、
象徴界の住人でもあるホームズが
どうしてあんなにしうねく大麻に
執着していたのかということも
興味深いことです。