文学における弱者の系譜というのは

とてもおもしろい課題だと思う。

文学において弱者が

いつからあらわれるのかはわからないが、

近代文学において「内面」が

意識されて主題になったとき、

それは明らかに強者の内面ではなく、

弱者の内面である。

いやそれが強者の内面であっても、

内面を綴るということが

強者をいつのまにか

弱者に変装させてしまうのである。

たとえばアニメ
を例にとって簡単にいうと、

ドラえもんという物語において、

ジャイアンが「内面」を語りはじめたら、

ジャイアンはたちどころに

弱者となるということでもある。

クレヨンしんちゃんモーレツ大人帝国の逆襲が、

他作品との違いをみせるなら、

それはヒロシが内面をつづってみせた

ことにあるのかも知れない。

そのときヒロシは類型化された

週間キャラクター
を抜け出して、

みずからの内面をつづる

主人公(アンチヒーロー
)になりおおせている。

「内面」と文学のモード(書き方)は関連性が強く、

モードによって「内面」が決定されている

ともいえるのだけれど、

「弱者」もまた

モードによって決定される部分があるはずで、

それを洗っていく作業というのは

けっこうおもしろいはずである。

また文学は弱者の受容層も生んでいるはずで、

弱者の読者層に目を向けることも

興味ある作業となると思う。

内面をつづる作業、

日記を書き続ける作業は、

「弱さの強さ」という転倒だという側面は

たしかにある気がする。

「弱さの強さ」で、

なぜかマルケスの「族長の秋」を

思い出してしまった。

あれは「強さの弱さ」だろうか。

それとも「強さの強さ」?