20170418

とてもきれい

よく眠れたと思う

なんとトイレのお洒落感に驚く

うん、落ち着く道の駅です

でも魚はない












20240615

新城と書いて「しんしろ」と読む。
壱岐市勝本町に新城触(ふれ)という地名があり「新城神社」がある。

新城神社は、文永の役で戦死した壱岐の守護代・平景隆の本陣であった樋詰城跡(ひのつめじょうあと)にあります。
神殿は、明治19年に造営。
この仕事を始めて二度ほど参拝しました。
壱岐という島は「触」は農業、「浦」は漁業と捉えて頂ければ。
 

新城市は4万強の人口で小規模な基礎自治体。
しかし、隣の静岡県には政令指定都市・浜松市がある。

空路で東京へ行くとわからないものが車で一般道を行くと日本が見えてくる。
一番感じたのは「道路整備」or「道路差別」?
国道3号線を関門海峡を渡ると国道2号線、道路が広くなる。

大阪の環状線を越えると国道1号線。

もう目を疑うように整備されている。
一般道脇にはサービスエリアがあり九州自動車道よりも充実。

トラックなどの休憩所も兼ねているので簡易宿泊施設、シャワールーム、コインランドリー等々。

セブンイレブンの7cafeのマシーンが7台。

九州で見たのは福岡市の板付と旧5号線沿いの二店舗。
これが東名、名阪の道路なんだと思った。

高速道路にしても東名に新東名と。


中国地方は
中国自動車道と山陽自動車道

 

九州は西九州新幹線が武雄~鳥栖間の件で揉めてる場合じゃない。

キャッチも「長崎が、近くなりました。」はいかがなものかと。

浜松市は名古屋市と一緒に新しい経済圏の構築を進めてる。
首都圏、東海圏、新東海圏(仮称)、関西圏

正直、この区間が実質的な「日本」なんじゃないかと錯覚する。






自治体別人口は

1位・横浜市   377万人

2位・大阪市   277万人

3位・名古屋市232万人

4位・札幌市  197万人

5位・福岡市  164万人

10位・広島市 118万人

11位・仙台市 109万人

14位・北九州市 916万人
20位・熊本市 74万人
29位・鹿児島市 59万人

40位・大分市 47万人
54位・宮崎市 40万人

56位・長崎市 39万人

 

※佐賀市は上位100には入っていない

長崎市は九州の人口所在地で唯一人口減少、また激しく40万人を切っている。

俯瞰してみると真ん中の経済圏の北に札幌市、南に福岡市。

九州の利点は北海道に比べると北九州市と熊本市がある。


今後限界集落が減ることはない。
そうすると消滅自治体がどんどん現れる。

これは自然現象とも言えるかもしれないが最善の策はコンパクトシティ化?
地方創生を達成するならば「東京解体」が最速の途。
かつて元熊本県副知事・小野泰輔議員(維新)が言った「九州は国になった方がいい」

まさにその通りだと思ってる。

また非現実的とも。

そうなれば道州制か民間での垣根を越えた「九州は一つ」を達成は可能かなと。

基本情報
所在地〒433-1318 愛知県新城市八束穂字五反田329-7 
電話:0536-24-3005



 Official site

 

      【朝霧湖(大島ダム)】






          【石巻温泉】








 

【新庄市の概要】
新城市(しんしろし)は、愛知県東部の東三河地方にある市。
豊橋市や豊川市の北にあり、旧設楽郡の玄関口にあたる。2005年10月1日に、南設楽郡鳳来町・作手村と新設合併し、愛知県内では豊田市に次いで2番目に広い面積を有する自治体である。

地理
新城市中心部周辺の空中写真。2020年6月16日撮影の21枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
愛知県の東部、豊橋平野の北端に位置する。本宮山などの山々に囲まれており、市の中央に豊川が流れる。

歴史
戦国時代、山家三方衆の奥平氏や菅沼氏が、亀山城や長篠城を拠点に支配した。戦国期の1561年(永禄4年)6月29日、松平元康が菅沼定氏に与えた判物写に「新城・田嶺・武節三所……一所城代可申付之事」とある(譜牒余録/岡崎市史6)。1574年(天正2年)11月の永住寺追鐘銘には「三州設楽郡新城村」と見える(古鐘銘集成)。同9年3月7日の竜沢寺勧化帳写によれば、「三州新代」の英寿寺は竜沢寺へ1貫文勧進している(竜沢寺文書/福井県史資料編4)となっており、新城市HPに記載される由来以前に、新城と呼ばれている。

1571年(元亀2年)、武田信玄により、徳川家康攻略のための拠点として古宮城が築かれる。1573年(元亀4年)には野田城の戦いで菅沼氏の野田城が武田信玄に奪われた。この頃、武田氏傘下だった亀山城の奥平氏が、信玄の死を確信して離反し徳川家康の側に移ったとされる。信玄の死後、長篠城は徳川家康に奪われ、奥平信昌が入った。1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った。1576年(天正4年)、奥平信昌が、長篠の戦いで損傷した長篠城を廃城し、新城城(現在の新城小学校周辺)に移転築城した。

江戸時代においては市域の北部(旧設楽郡)は主に交代寄合菅沼氏の領地や作手藩、市域の南部(旧八名郡)は、主に定府大名安部氏の武蔵国岡部藩の領地であった。新城は伊那街道を下ってきた馬による陸運と豊川を上ってきた海運が接合する場となり、そのさまは「山湊馬浪(さんそうばろう)」と称された。1868年(慶応4年)明治新政府方についた安部氏は、陣屋を当時の半原村(現新城市富岡)に移して、半原藩を発足させたが、すぐに版籍奉還となった。1871年(明治4年)の廃藩置県では、半原村に半原藩改め半原県の県庁が置かれたが、額田県との合併を経て愛知県に合併された。

明治、大正時代は、南設楽郡役所が新城町(新城駅周辺)、八名郡役所が富岡村(1906年に合併により八名村)に置かれ、2つの郡の中枢地となった。大正の郡制廃止後、太平洋戦争中、南設楽郡新城町に南設楽郡と八名郡を管轄する八楽(はちらく)地方事務所が置かれ、南設楽郡と八名郡は新城町に中枢が統一された。

沿革
ウィキソースに新城市、鳳来村、作手村を廃し、新城市を設置する件の原文があります。
1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行により、南設楽郡新城町が発足する。
1955年(昭和30年)4月15日 - 南設楽郡新城町・東郷村・千郷村・八名郡八名村・舟着村が新設合併し、新城町となる。
1955年(昭和31年)9月30日 - 旧舟着村のうち乗本を鳳来町に編入し、鳳来町から横山の大部分(字北山を除く)と布里の一部(字七久保)を編入する。
1958年(昭和33年)11月1日 - 市制を施行して新城市となる。
2005年(平成17年)10月1日 - 新城市・南設楽郡鳳来町・南設楽郡作手村が新設合併し、新しい新城市となる。