道の駅大和【佐賀県佐賀市】
20161128

見たら入ってしまうのはもはや習性か?

広々としている。

海産物は唐津からみたいだね。

ウニはないとのこと、しかし去年、一昨年と壱岐市、対馬市、五島市で物産展を開催しているみたいだね。

まあ、それはそれ、僕らは汐彩屋とT-styleだから。















基本情報
所在地:〒840-0203 佐賀県佐賀市大和町大字梅野805
電話:0952-64-2296



Official site




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道の駅大和(みちのえき やまと)は、佐賀県佐賀市にある国道263号の道の駅である。九州では珍しいオートキャンプ場が併設されている。特産の干し柿や農産物が有名。

施設
駐車場
普通車:46台
大型車:8台
身体障がい者用:2台

トイレ
男:大 4器(2器)、小 4器(2器)
女:6器(2器)
身体障がい者用:2器(1器)
()内は、24時間利用可能

公衆電話
郵便ポスト
公衆FAX
売店「そよかぜ館」
インフォメーションセンター
自動販売機コーナー

オートキャンプ場
バーベキューコンロ無料貸し出し
サイト数:6サイト(土、芝)
キャンプ利用者用洗い場(母屋)
すべてのキャンプサイトに20A電源
予約方法:電話にて申し込み(090-5479-3158)

休館日
年始
アクセス
国道263号 - 登録路線
長崎自動車道 佐賀大和インターチェンジから北へ約2km

周辺
川上峡
肥前大和巨石パーク
佐賀バルーンフェスタ会場
古湯温泉街、ホテルアマンディ、ホテル龍登園、富士カントリーゴルフ場


【佐賀県佐賀市の概要】

佐賀市
佐賀市(さがし)は、佐賀県中東部にある市。佐賀県の県庁所在地及び最大の都市で、経済・行政の中心地。県内最大の人口を擁し、施行時特例市、中枢中核都市に指定されている。
有明海から脊振山地までを縦断する市域を有し、市街地は佐賀平野の中心付近に位置する。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーン(熱気球)の街として賑わう。

概要
人口約24万人を有する佐賀県最大の都市だが、九州の県庁所在地の8市では最少である。また、佐賀市以外の6市はいずれも政令指定都市(法定人口50万人以上)または中核市(同20万人以上)に指定されているが、佐賀市はそのいずれにも指定されておらず、7市で唯一の施行時特例市である。なお、人口要件を満たしている中核市への移行は検討中である。
福岡市とはそれぞれの中心部の直線距離が約37kmと近いが、山地を隔てて生活圏や雇用圏が分かれているため、鳥栖市のようなベッドタウン化は目立たない。しかし、JR九州が西鉄高速バスに対抗するため長崎本線の特急電車に大幅な割引回数券を設定していて、40分程度で着席通勤できることから、佐賀駅周辺には福岡への通勤者向けのマンションが立ち並ぶ。
江戸時代より佐賀藩の城下町として発達してきており、鳥栖市・久留米市が交通拠点・工業地域、唐津市が港湾・観光都市であるのに対し、佐賀市は農業地帯の中心に位置する地方都市や佐賀県中部・東部の商業都市としての面が強い。2000年代以降は観光都市としてPRする動きも活発であり、観光資源の発掘が盛んである。

地理
地勢
佐賀県南東部に位置する。市域は南北に長く、南側は有明海に面し、南東部は筑後川を挟んで福岡県大川市・柳川市に、北東部でも脊振山地を境に福岡県福岡市(早良区)・糸島市に接している。

長崎自動車道付近を境にして、市域の北半分は、北部九州を東西に貫く筑紫山地に属する脊振山地であり、山がちで起伏が大きい。市域の南半分は、有明海北岸に広がる筑紫平野の西部に属する佐賀平野であり、起伏がほとんどない低平な地域で、対照的である。市街地は佐賀平野の中心付近に位置している。

2005年(平成17年)・2007年(平成19年)の周辺町村との合併によって市域は104km2から431km2へと4倍以上に拡大し、県内では唐津市に次ぐ2番目に大きな面積を有する自治体となった。

東端:東経130度23分
西端:東経130度8分
北端:北緯33度29分
南端:北緯33度8分
隣接している自治体
佐賀県
唐津市
小城市
神埼市 - 神埼市との境界のうち、腰巻山付近から帯隈山付近までの直線距離約2kmは境界未定部分である。
多久市
福岡県
福岡市(早良区)
糸島市
柳川市
大川市

佐賀平野地域
平野部では水辺と田園地帯が独特の自然景観を見せる。市域にあたる佐賀平野中部は、丘陵がほとんど存在せず、河川堤防を除くと全般的に海抜が低い。また中小河川や水路(クリーク)が発達していて、農業用水・生活用水や水運を目的としていたことから、市街部・田園部の別なく水路が網羅されていて、その恩恵を享受していた。一方で、脊振山地に源を発し市域西部を流れる嘉瀬川と、九州山地に源を発する九州最大の筑後川に挟まれているため、昔から洪水の頻発地帯であり、灌漑や治水によって農地や住民の生活が守られてきた側面もある。

市街地北部の国道34号付近でも海抜5mであり、有明海沿岸堤防の計画高水位より低い上、起伏が少ないため水はけが非常に悪い地域であった。一度堤防が決壊して町や農地が水浸しになると何週間も引かないことがある一方、水争いでの村同士の対立も深刻であった。これを一変させたのが、江戸時代に入ってから成富兵庫茂安らの協力で佐賀藩が行った治水事業である。平野全体で治水や灌漑を一体的に考える当時としては画期的な手法によって、洪水被害が軽減され水争いが減少した。また明治以降、干満差が大きい有明海を取り囲む高い堤防と水位調整、さらに蛇行の多い水路を直線的に改良して排水効率を向上する水路整備や排水ポンプ場整備により、現在の洪水被害は減少している。ただし、年一回程度梅雨末期に大なり小なりの市街地の冠水被害はあるものの、本市においては汚水処理管と雨水処理が完全分離された分流式下水道を採用しており、冠水時に市街地に溢れる水は雨水が主体であり、大都市に多く採用されている合流式下水道のようなし尿混じりの汚水が側溝を通じて市街地に逆流して溢れたり、雨水吐口による希釈下水の河川放流水が冠水時に混入するなどの問題はなく、また水が引いたあとの下水由来の悪臭の発生も殆どないため、浸水の程度や業種、浸水をあらかじめ想定した店舗づくりといった対策の有無等にも左右されるが、早い所では水が引いた翌日には営業を再開する店舗も見受けられる。

江戸初期に設置された石井樋により嘉瀬川から分流した多布施川は、市街地北部を縦断して水路に分化しながら佐賀城内に至り、古くより生活用水として用いられていた。現在も多布施川から旧佐賀市の水道水が取水されている。城内通過後の多布施川は佐賀江川につながり、市街地南部を再び縦断して今度は農業用水に用いられ有明海に至る。このほか巨勢川、福所江川、八田江川などが、いずれも北から南に向かって流れている。諸富町南東では筑後川に接し、中州である大中島、筑後川と早津江川に挟まれた河口州である大詫間(島の南半分が佐賀市、北半分が大川市)は市域に含まれる。

起伏が少ない佐賀平野は水田に適しており、古代より順次開墾されていって稲作地帯となった。また佐賀平野は筑後川などの土砂運搬により急速な自然陸化が進む地域で、海岸線は年々南下してきた。これに加え、江戸時代以降本格化した干拓によって、人工的に土地を造成して農地を拡大してきた。東与賀町や川副町の大部分、本庄町・西与賀町・久保田町の南端はほとんどが干拓地である。

佐賀市街は、市内平野部のちょうど真ん中付近に位置している。佐嘉と呼ばれていたこの町は、戦国時代まで佐賀平野の1農村に過ぎなかった。室町時代中期に村中城および水ケ江城を構えて拠点としていた龍造寺氏が戦国時代後期に勢力を伸ばしたことが転機となり、町が発展した。さらに、後継の鍋島氏は2つの城を慶長年間(1596年 - 1615年)に大改修し佐賀城を築城するとともに、城周辺を再整備した。その際、条里制による直線的な道路・水路を生かして碁盤の目のような整った街路区画を行っており、現在でもその名残を見ることができる。これ以降佐嘉は肥前佐賀藩の城下町として、また長崎街道の宿場町としても栄えた。中世以降「佐賀」の表記も用いられるようになり、明治維新以降は正式に「佐賀」と改められた。そして、明治初期の廃藩置県後に県庁所在地となったことで、近代以降の佐賀県の行政の中心地としての地位を確立する。
現在の佐賀市街は、佐賀駅を中心としてビル街・商業街があり、それを取り囲むように低層住宅地が位置し、住宅地郊外にショッピングセンター型の大型商業地が点在する。宅地化はやや道路に沿いながらもほぼ同心円状に進んだ。中心市街地では佐賀駅移転・工場の移転再整備・基幹道路整備という一連の流れにより再開発が進んだ地域もある。いわゆる高層建築物はほとんどなく、もともとの地形とも相まって、比較的平坦な街並みである。

地価高騰により住宅地が郊外に集積したことで、高齢化とドーナツ化現象が中心市街地の衰退を招いていたが、1990年代 - 2000年代には地価下落による再開発ラッシュの影響を受け、中心市街地に中層マンションが集積したことで、ドーナツ化は緩やかになっている。しかし、同時期に郊外型商業地の集積も進んだため、佐賀駅周辺や城内地区などの商店街型の小売業は長期的に衰退してきている。
一方の郊外部では、農地に点在していた住宅の間に新しい戸建住宅や団地が造成されるなどして、開発が順調に進められて市街地が拡大していった。通勤の軸が鉄道ではなく自動車(道路)であるため、主要道路の沿線に住宅地が形成されている。もともとの農地が区画整理されていたこと、1970年代から早期に環状道路が整備されたこと、郊外化に拍車をかける市街の地価高騰がそれほど顕著でなかったことから、スプロール現象は起こっていない。

脊振山地地域
脊振山地南側山麓のうち市域部分は、川久保断層などの断層系の影響で比較的急な斜面になっており、ゆるやかな丘陵地帯である小城市や神埼市方面とは異なっている。市西端(佐賀県中央部)付近に位置する1046m(市内最高点)の天山、福岡県境に連なる900m級の雷山や羽金山などが標高が高く、両地点の間には山々が連なり、その間を山間部では川上川とも呼ばれる嘉瀬川水系の河川が縫うように流れ、市北部をカーブを描きながら南下している。比較的緩やかな山合いや川岸の平地に、農地に囲まれた農村や、里山に接した山村が点在している。
川上川最上流の三瀬村西部には北山ダム、また同上流の富士町中部に佐賀県最大規模の嘉瀬川ダムがある。また、川上川水系から離れた大和町の一部や金立町・久保泉町の山間部では、少雨時に水不足になりやすいため、多数のため池が点在する。

羽金山には日本標準時標準電波 JJYを送信するはがね山標準電波送信所がある。JJY送信所は日本に2か所あり、もう1つは福島県田村市・川内村 おおたかどや山。
山:天山 (1046m)、彦岳 (845m)、白石山 (794m)、雷山 (955m)、羽金山 (900m)、亀岳 (740m)、権現山 (586m)、金立山(502m)

夏に雨が多い太平洋側気候、その中でも温暖で年平均気温が17℃前後と高めの九州型気候に入る。また同じ九州北西岸の福岡市や長崎市と同様に、冬季は降水量は少ないが曇天の日が多い特徴がある。年間雪日数は22.2日と雪の降る日は珍しくないが、市南部(平野部)では積もることは非常に少ない。また同じ有明海沿岸の熊本市や久留米市などと同様に、気温の上下幅が大きい内陸性気候の傾向がある。近隣の唐津市や福岡市に比べ冬の最低気温が低く、夏の最高気温が高くなるうえ、1日の最低気温と最高気温の差も大きい。 山間部は市街地に比べて年間降水量が多く、年平均気温がやや低い。また、玄界灘からの北西季節風に伴い積雪することもある。

観測史上最高気温 - 39.6℃(1994年(平成6年)7月16日)
観測史上最低気温 - -6.9℃(1943年(昭和18年)1月13日)
日最大降水量 - 366.5ミリ(1953年(昭和28年)6月25日)
月最大降水量 - 1086.0ミリ(2020年(令和2年)7月)
日最大瞬間風速 - 54.3メートル(1991年(平成3年)9月14日)
夏日最多日数 - 171日(2005年(平成17年))
真夏日最多日数 - 93日(1978年(昭和53年))
猛暑日最多日数 - 38日(1994年(平成6年))
熱帯夜最多日数 - 53日(2018年(平成29年))
冬日最多日数 - 62日(1945年(昭和20年))

歴史
佐賀城鯱の門
縄文時代から弥生時代にかけて、市南部の平野地域はまだ海底であったが、度重なる海進・海退と河川による土砂運搬により、今ある佐賀平野が作られる。また有明海の干拓によって平野面積がさらに拡大した。

律令制下では肥前国に属し、現在の佐賀市大和町に肥前国国府が置かれた。戦国時代には龍造寺氏をはじめ、鍋島氏・石井氏・高木氏・於保氏・八戸氏などの在地領主が割拠していたが、龍造寺氏がそれらを統合して戦国大名化。城下町の基礎が形成された。龍造寺氏が絶えたのちの1608年(慶長13年)、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する佐賀藩の本拠地となり、佐賀城が築城された。水運と農業中心の小さな町だった現在の佐賀市街付近は、佐賀城築城後に佐賀藩本藩の城下町として発展し、商工業が大きく発達した。

佐賀藩は別名を肥前藩ともいい、明治維新において、版籍奉還を上奏した「薩長土肥」の1つとなった。また、長崎に近かったため西洋の科学技術を積極的に導入し、幕末には精錬方(藩立の科学技術研究所)、反射炉、三重津海軍所(造船所・海軍修練所)などが設置され、鉄製大砲や蒸気船、指字電信機(エーセルテレカラフ)、暗箱カメラなどが外国の技術者に頼ることなく独力で製作され、日本の科学技術近代化に大きく貢献した。

明治時代は佐賀県の併廃とともに佐賀県、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県、と変わり、最後には佐賀県が分離されてその県域に入った。1889年の市制施行時の市域は現在の市中心部の一部だったが、昭和の大合併により旧佐賀市、平成の大合併により現在の佐賀市の市域となった。これにより市域は福岡県境へと拡大した。人口規模は特例市の要件(20万人)を満たし、2014年4月1日付けで移行された。

佐賀市は太平洋戦争の空襲攻撃において、アメリカ軍による爆撃優先順位が180都市中101番目と決して低くなかったが、幸いにも佐賀空襲が誤爆攻撃になった事により中心部の被害は免れ城下町の古い街並みがそのまま残った。しかし、その後目立った街並みの保存運動等が起こることが無く無秩序な建て替えなどでその多くが失われ、佐賀市歴史民俗館建物群がある旧市街東部の長崎街道沿いなどで江戸-大正にかけての町屋建築や明治 - 大正にかけての洋風建築の街並みを見ることができるのみであり、その他の旧城下市街では纏まった古い街並みは少なく古い町屋や洋館が散在する状況にある。ただし、江戸時代からの町割りや水路は良好に残されており、江戸時代の石積護岸の水路や石橋が今も現役で使用されている。

行政区域の変遷
1889年(明治22年)4月1日 : 市町村制施行。現在の城内地区を中心とした市域の佐賀市が発足。面積4.80 km2、人口25,628人(同日調査)。また、現在の市域にあたる佐賀郡神野村・西与賀村・東与賀村・嘉瀬村・兵庫村・古瀬村・高木瀬村・北川副村・本庄村・鍋島村・金立村・久保泉村・久保田村・東川副村・西川副村・新北村・春日村・川上村・松梅村・小関村・南川副村・中川副村・大詫間村、神埼郡蓮池村・三瀬村、小城郡南山村・北山村の27村が発足。
1899年(明治32年)6月6日 : 古瀬村が巨勢村に改称。
1922年(大正11年)10月1日 : 神野村を佐賀市へ編入。9.09 km2、38,483人(同年調査)。
1935年(昭和10年)11月3日 : 蓮池村が町制施行。蓮池町となる。
1953年(昭和28年)4月1日 : 南川副村が町制施行。南川副町となる。
1954年(昭和29年)3月31日 : 西与賀村・嘉瀬村・兵庫村・巨勢村・高木瀬村を佐賀市へ編入。
1954年(昭和29年)10月1日 : 北川副村・本庄村・鍋島村・金立村・久保泉村を佐賀市へ編入。
1955年(昭和30年)3月1日 : 東川副村と新北村が新設合併し、諸富町が発足。
1955年(昭和30年)4月1日 : 蓮池町のうち蓮池、見島小松、古賀のそれぞれ一部を佐賀市へ編入。それ以外の地域は神埼郡の他3村とともに新設合併し千代田村となる。103.68 km2、126,432人(同年国勢調査)。
1955年(昭和30年)4月1日 : 南川副町・中川副村・大詫間村が新設合併し、川副町が発足。
1955年(昭和30年)4月16日 : 春日村・川上村・松梅村が合併し、大和村が発足。
1956年(昭和31年)9月30日 : 小関村・南山村・北山村が新設合併し、富士村が発足。
1956年(昭和31年)9月30日 : 西川副村を川副町に編入。
1959年(昭和34年)1月1日 : 大和村が町制施行。大和町となる。
1966年(昭和41年)10月1日 : 東与賀村が町制施行。東与賀町となる。
1966年(昭和41年)10月1日 : 富士村が町制施行。富士町となる。
1967年(昭和42年)4月1日:久保田村が町制施行。久保田町となる。
2005年(平成17年)10月1日:佐賀市・佐賀郡諸富町・大和町・富士町・神埼郡三瀬村が新設合併し、新市制による佐賀市が発足。合併前は103.76 km2、166,745人、総世帯数65,443世帯、人口密度1607人/km2。合併後は355.15 km2、206,967人、77,853世帯、583人/km2となった(いずれも同年国勢調査)。
2007年(平成19年)10月1日:佐賀郡川副町・東与賀町・久保田町を佐賀市へ編入。合併後は431.42 km2、約240,000人、約89,400世帯、556人/km2となった(同日推計)。