道の駅・七城メロンドーム(熊本県菊池市)


最初に訪れた時、何も知らない僕は店内に入ると閑散期だった。

しかし客は割と多かった。
専務(2016年当時)が対応してくださった。
もともと鹿児島の枕崎の方でマグロ漁船に乗ってたみたい。
JAを省いて、生産者が店内で対面販売する。

生産者は利幅が大きくなる。

メロンの横に糖度計があり14%を切ったら排除されるので生産者も必死。

いろんことを教えてくださった。

年間売上を聞いて、ひっくりした。

この店内で・・・。

 

甘塩うにとアジの開きを置いて頂こうと交渉したものの返事は「俺が七城町の人間に殺される」と。
七城町の結束を感じた。


退職され、新しい館長宛てに何度も訪問したが、会えず(僕の中では居留守と捉えていた(笑))
ある時、偶然見つけて笑いながら「どうぞ」と部屋へ入れてもらった。
仕切り的には問題はないと思ってた。
どうも、誰に担当者にするかが重要に感じて、みんなが嫌がるだろう雰囲気を感じて出てきた答えが館内にいる魚屋さんに卸したら?そこはもう話していた。「ここは売れない。場所代は高いし」とマイナス面ばかり仰り、ならなぜいるんだろうと思ってた。

思い切って聞いてみた。「他に店舗があるんですか?」と。すると「いや、ここだけ」。
いよいよ不思議感が募った(笑)

 

ここでの大きな収穫はお茶屋さんと知り合えたこと。

僕が行くところ、行くところ写真をFacebookに上げるとコメント欄に観光スポットのアドバイスなどを頂いた。
なんで?お茶屋さんが?と思ってたら、あるホテルの営業の方だった。納得がいった。

熊本の酪農の大打撃など・・・。

頑張ってるところは頑張っているという思いと同時に市町村合併の難しさをここでも知らされた。

 

ところで隈府って読めます?
「わいふ」だと。

ここでも補助金の話を行政の課長さんにいろいろ聞いた。
阿蘇の震災後、旅館が・・・。

※店舗の前にも駐車場がありますが、店舗の向かって左に大きな駐車場があります。

私はトイレに一番近い電気自動車充電駐車場の隣が私のスペースでした。

基本情報
所在地:〒861-1368 熊本県菊池市七城町岡田306
電話:0968-25-5757

 

 

 

 











【ソフトクリーム】
生メロンソフトクリーム

七城産の高級生メロンを贅沢に使用した、当店人気NO.1の商品です。
フレッシュメロンの風味と食感を同時に楽しんでいただけます。
青肉メロン/赤肉メロン(期間限定)の2種類をご用意。原料となるメロンは生産者から直接仕入れ、洗浄・殺菌加工したものを冷凍保存しています。オフシーズンには売り切れてしまうことも。

生イチゴソフトクリーム


七城メロンドーム裏手にあるイチゴ農家【七楽の郷】のイチゴを使用。フレッシュイチゴの酸味と牛乳アイスクリームのブレンドで、ミルキーな味が人気です。

メロンが主体の道の駅ですが、正直、甲乙つけがたいです。

あえて私がこういう表現をするのは?(笑)

夢の島からの贈り物


 

 

 

 

 

 

 

 

 



【七城メロンものがたり】


メロンの里 菊池市七城町
熊本県の北部に位置し、美しい水と、肥沃な大地に恵まれた
菊池市七城(しちじょう)町。
町のシンボルでもあるメロン型の建物が一際目立つ「七城メロンドーム」では、
お客様が、今か今かと、その日を待ちわびるお目当ての商品があります。
〝肥後グリーンメロン〟です。

肥後グリーンメロンの魅力は、何と言っても高い糖度!
その甘さは、マスクメロンを凌ぐと言われています。
また、見た目は、綺麗な球体ではありませんが、
大玉で翡翠色と評される美しい果肉に魅了されます。

今では、県内外からのお客様からも愛される〝町の至宝〟となりましたが、
ここにたどり着くまでには数々の苦難がありました。



七城メロンの歴史
七城町のメロン栽培の歴史は古く、昭和8年6月に、七城町在住の有働貫一氏(当時16歳)が、単身ドイツへ研修に赴き、現地での先端技術を学び、帰国後、ガラス温室棚上栽培による「アールスメロン」の青肉と「サットンスカーレットメロン」の赤肉栽培をしたのが始まりと言われています。
当時は、化学肥料など無く、油粕、魚粉、骨粉を使用した、堆肥を作り、農薬は一切使用せずに栽培されていたそうです。

古くから栽培されていた割に、余り知られていないのは、当時は、一般庶民には、とても手が出せない高級果実だったからだと言われています。

戦後しばらくして高値の花だったメロンが大衆化されると、昭和38年に七城町でもメロンの出荷組合が結成され、県内初となる1玉1kg程度の小玉で香りが強い「プリンスメロン」の栽培が始まり、初収穫の際は、大型トラックを複数台チャーターし大阪中央卸売市場に売り込みに行ったそうです。この頃から、熊本県内では、メロンの生産地として名を馳せていましたが、全国的には知名度が低く苦難の時を迎えることになります。



苦難の時
メロンの栽培が盛んになり、多くのメロンの出荷が可能になると、大きな壁にぶつかる事になります。
「売り先が見つからない・・・」県内での知名度は高くなったものの、全国的には知名度も低く、高値で取引できるどころか、買い手が付かない事もしばしば・・・。「このままメロンの栽培を続けようか?別の作物に鞍替えしようか?」
そのような葛藤を抱えながら、生産者は、歯を食いしばり、「売り先を探す事も大事だが、まずは誰もが美味しいと思うメロンを作ろう!」とメロン作りの継続という道を選ばれました。

全国的にも知名度が高くなり、七城産メロンは高値で取引されています。その原点は、苦難の時でも〝美味しさ〟を追求し続けた先人たちの熱い想いがあったからなのだと感じざるを得ません。



新たな目標
「決めたからには、とことんやるぞ!」と日夜良質なメロン作りに取組む生産者の想いとは裏腹にメロンの売れ行きは一向に好転しない・・・。そんな暗いムードの中、一筋の光が差し込みます。「黒いダイヤ」と呼ばれる石炭を採掘する炭鉱の町から「赤いダイヤ」と評される夕張メロンを一大産業としたメロンの町へと様変わりし成功を収めた夕張のニュースでした。

その日から「北の夕張、南の七城」を合言葉に、多くの方に愛され、地域ブランドとしても確立し、ようやく先人から受継いだ技術と知恵が認められた今でも、生産者の皆さまは、先進地研修、種苗会社での研究会などに積極的に取組み「もっと美味しく美しく」を追求されています。

〝日本一のメロンの里〟
生産者は、新たな目標を定めメロン作りに没頭されていきました。

 

転機到来!
苦難の時でも成功を夢見てメロン作りに没頭した生産者へ追い風が吹きます。
熊本の風土をゆりかごに育成された新品種『肥後グリーン』の誕生です。
「糖度は16度以上。ものによれば17度18度にもなる。」と評判になり、注目を浴びるようになりました。

この転機を切っ掛けに更に追い風が吹きます。平成7年に『道の駅 七城メロンドーム』が開業。
これを機に、品質にこだわり選定した商品のみの販売に着手し、積極的な県内外への販売促進活動を積み重ねた結果『メロンと言ったら七城産メロン』が定着するようになりました。



地域ブランドとして
「七城産メロンはおいしい」との噂が口コミで広がっていく中、七城メロンドームでは、『このおいしさを数値化し、より良い品物をお客様に提供できないか?』と検討を重ね、平成11年4月から『糖度測定機光センサー』を導入。
『糖度14度以上』『見た目も秀品、優品以上』のメロンのみを販売する事で〝何となく甘い〟ではなく〝本当に甘い〟とのお墨付きを得て『七城産メロン』は更に高い評価を受けるようになり、多くの人を魅了する地域のブランドとして確立しました。

今では、生産者自らが自分の手掛けたメロンをお客様と対面方式で販売するのも七城メロンドームの風物詩となり「甘くて美味しいメロンを安心して選べる直売所」として、自宅用のみならず、贈答用としても、七城メロンを求めて県内外から多くのお客様が足を運ばれます。

更なる高みへ
 


観光スポット・菊池温泉
【菊池一族】

菊池氏
菊池氏(きくち し)は、武家・華族だった日本の氏族。平安時代より九州肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠とした豪族で南北朝時代には歴代当主が南朝方武将として活躍したが、南北朝合同後に衰退し、戦国時代に大友氏に滅ぼされた。支流が米良氏として残り、江戸時代には交代寄合、明治維新後は菊池に復姓して華族の男爵家に列した。

概要
中関白藤原道隆の子大宰権帥藤原隆家の子孫と伝承されるが、実際には刀伊の入寇の際に隆家とともに奮戦した大宰府官で、その戦功により大宰少弐、対馬守となった藤原政則の子孫であると見られる。11世紀後半から肥後国菊池郡(熊本県菊池市)の在地領主として勢力を拡大。平安時代末の治承・寿永の乱の頃の当主菊池隆直は、一国棟梁的存在として菊池権守と呼ばれ、鎌倉時代には鎌倉幕府御家人に列した。鎌倉中期の当主菊池武房は蒙古襲来時に奮戦した。1333年には菊池武時が鎮西探題館に討ち入って戦死したが、その子菊池武重は後醍醐天皇の建武新政下において肥後守に叙せられ、以降南北朝時代において菊池武重、菊池武敏、菊池武光が九州の南朝方武将として活躍した。両朝の和合後には菊池武朝が肥後の守護になり、菊池能運まで続いた。戦国時代には阿蘇惟長(菊池武経)や大友重治(菊池義武)などが菊池の名跡を継いだが、義武の時代に大友義鎮に滅ぼされた。能運の子孫は日向国米良(宮崎県児湯郡西米良村)へ逃れ、以後米良氏を名乗るようになったという。米良氏は江戸時代には交代寄合(参勤交代をするが、5000石格の無高で肥後国人吉藩相良氏の扶養という特殊な交代寄合家だった)として続き、明治になり、菊池姓に復し、南朝忠臣菊池氏の末裔の由緒から華族の男爵に叙された。

肥後菊池氏
起源
中国の歴史書『三国志』中の「魏志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に登場する狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)を、その名前より「菊池彦」に通じるとし、熊本県菊池郡や菊池氏との関連を指摘する説がある。平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本紀』には、文武天皇二年五月甲申(698年7月8日)の條に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」(太宰府をして大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせしむ)の記述がある。また奈良時代の天平勝宝元年十一月三日(749年12月16日)に奈良東大寺が大宅可是麻呂から進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。平安時代中期の承平年間(931年 – 938年)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではこの地名を「久々知」と註していることから、上代から古代にかけてはこの地域は「くくち」と呼ばれ「鞠智」と表記していたことがわかる。康保4年(967年)に施行された『延喜式』によるとすでに「菊池」の記載があることから、この頃までには「鞠智」に「菊池」の佳字を当てていたものと考えられる。

菊池氏は、1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆が肥後国に下向して土着したとして藤原姓(藤原北家)を自称し、各種系図もこれに沿った内容となっているが、1959年(昭和34年)志方正和は公家が残した日記や『源氏物語』を研究した結果、藤原隆家の後裔とするのは仮冒であり、藤原隆家の下で大宰少弐であった則隆の父藤原政則について、肥後国住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代1070年ごろ菊池周辺に土着したとする説を発表、この説が現在まで有力とされている。その出自については、太田亮による代々大宰府官を務めた紀姓の地方豪族とする説、さらには、狗奴国の官・狗古智卑狗(菊池彦) 後裔説、古代鞠智(くくち:山の麓の谷から平野へ出る口)族後裔説、源経基の後裔とする源姓説、など多様な説がある。

近年、政則の初名に「基定」と記された系図と由緒が公表され、これを隆家の五男・基定 (肥前守従五位下) であるとする新説と共に、則隆には、従五位下右近将監「則忠」、従五位下武部少輔「則宗」、従五位下肥前守「武重」という3人の弟がいたことが分かった。

源平合戦時代
院政時代全国の在地支配層は、こぞって中央の有力者に荘園を寄進してその庇護を受け、院の武者として勢力を拡大しようとした。4代菊池経宗・5代菊池経直が鳥羽院武者と記録されていることからも、菊池氏がその例に漏れなかったことが推定される。このころまでに菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力として定着拡散して行ったことが分かる。

平家台頭後は日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と化したが、1180年(治承4年)源頼朝が兵を挙げると翌1181年(養和元年)6代菊池隆直は養和の乱を起こして平家に反抗した。隆直は翌年平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦いにおよんで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。源平の間を揺れ動いたことで頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた。

鎌倉時代
8代菊池能隆は承久の乱において後鳥羽上皇方にくみしたため、北条義時によって所領を減らされた。乱後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置して、西国の押さえとした。10代菊池武房は元寇に際して、鎌倉幕府から博多に召集され、一族郎党を率いて元軍と戦闘を交え敵を討ち取った。

菊池氏は、伝統的に源平勢力と一定の距離を保ち在地勢力の勇としての意地を見せてきたが、鎌倉幕府に衰えが見られるようになると朝廷とのつながりを深めた。12代菊池武時は後醍醐天皇の綸旨に応じ、1333年(元弘3年、正慶2年)阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗をさそって鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって善戦むなしく鎮西探題館内で戦死した。

武時の遺志は嫡男13代菊池武重に引き継がれ、建武の新政成立後、楠木正成の推薦もあって肥後守に任じられた。武時の武功は高く評価され、その庶子菊池武茂・菊池武澄・菊池武敏らも叙任を受けた。

南北朝時代
足利尊氏が建武の新政から離脱し反旗を翻すと、武重は後醍醐天皇の近くに仕え日本各地を転戦した。武重が関東で戦っているころ、京都を追われた尊氏が九州に逃れ少弐貞経の子の少弐頼尚が尊氏を赤間関に迎えに出た隙に、武重の弟菊池武敏は大宰府の貞経を攻めて滅ぼした。

1335年(建武2年)勢いづいた武敏は阿蘇惟直・秋月種道・蒲池武久・星野家能らを誘って多々良浜の戦いで足利方と戦ったが敗北し、菊池に逃げ帰った。尊氏が京都に攻め上ると、武敏は再度蜂起して足利方に反抗した。また、京都を脱出していた武重は1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)帰国して武敏と合流し、足利方の一色範氏・少弐頼尚と戦った。以後、九州も南北朝の争乱に巻き込まれていくことになる。

武重・武敏兄弟の死後、菊池氏勢力は沈滞の時期を迎えたが、南朝・後醍醐天皇の皇子懐良親王が、1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)征西将軍として九州に下向した。途中伊予国に滞在した懐良親王は、宇都宮貞泰を連れて1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)薩摩谷山に上陸、1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年)肥後国宇土において15代菊池武光に迎えられた。懐良親王は阿蘇惟澄の本拠地御船を経由して隈府城に入城した。

このころ中央では尊氏と弟足利直義の間に対立が深まり、1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)直義の養子足利直冬が九州に下向してきたため、九州は三勢力に分断された。しばらく三すくみの状態が続いたが、1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)直義の失脚により直冬が九州を去ると、勢力を伸ばした懐良親王は1358年(南朝:正平13年、北朝:延文3年)武光やその兄弟武義・武澄らの働きによって大宰府を攻略した。以後、大宰府に征西府が置かれ九州における公的機関の様を呈していた。

一方、業を煮やした幕府は1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)に新たに今川貞世を九州探題に任じた。武光は貞世と戦ったが敵わず、翌年には大宰府を失った。このような中で武光と16代菊池武政が相次いで没し、17代菊池武朝が後を継いだが、1377年(南朝:天授3年、北朝:永和3年)の蜷打の戦いで北朝方に大敗するなどさらなる敗戦を重ね、1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)には本拠地をも追われてしまった。

そして、1392年(明徳3年)の南北朝合一を機に武朝は阿蘇惟政とともに了俊と和睦することになった。

室町時代
18代菊池兼朝は必ずしも室町幕府に忠実ではなかったが、これまで守護であった阿蘇氏が阿蘇郡にしか勢力が及んでいない実情をみた室町幕府は兼朝を肥後守護職に任じた。次の19代菊池持朝の時代には大内氏とともに室町幕府に反抗的な少弐氏・大友氏と戦い、大友氏が持っていた筑後守護職を与えられた。ところが、20代菊池為邦の代に大友氏が幕府から罪を許されて筑後を大友氏と菊池氏の半国守護にすることになると、これに反発した為邦は大友氏と戦い、今度は幕府の怒りを買った菊池氏が筑後守護職を奪われてしまった。

一方、菊池氏の本国である肥後でも阿蘇郡は前守護である阿蘇氏が阿蘇大宮司の立場を利用して同郡を掌握しており、菊池氏の勢力は小国地方に浸透したのみであった。球磨郡と芦北郡も鎌倉初期からの領主である相良氏が掌握しており、内乱時に菊池氏の安堵を得ることはあっても原則的には自立した存在であった。そして、八代郡を支配していた名和氏も菊池氏とは長年南朝方としてともに闘ってきた間柄で菊池氏とともに室町幕府に従った後も自立した存在であり続けた(宇土郡を支配する宇土氏が滅亡すると、同郡も併合している)。菊池氏が守護として確実に支配できた地域は天草郡と「国中」と称された7郡(玉名・山本・山鹿・菊池・飽田・託磨・益城各郡)および筑後守護時代に影響下に入った筑後の一部地域に限られており、それも後述の内紛によって縮小していくことになる。

終焉
父である18代菊池兼朝を追って当主に就いた19代菊池持朝のころから菊池氏一族の間で家督をめぐる争いが持ち上がるようになっていたが、20代菊池為邦の弟で宇土氏の養子になっていた宇土為光が、甥である21代菊池重朝に対して1484年(文明16年)挙兵、敗れたものの重朝没後1501年(文亀元年)再度挙兵した。為光に追われた22代菊池能運は有馬氏を頼って玉名を経由して島原に逃れ、翌1502年(文亀2年)城重岑・隈部運治らと呼応して為光を自刃させた。能運は戦いに勝利したものの、戦傷がもとで1504年(永正元年)わずか23歳で死亡し、以後菊池氏の家督は庶流から輩出されるようになり、菊池氏家督は阿蘇氏や大友氏に横取りされ、こうして菊池氏は滅亡した。

能運の死後肥後国では下克上が進み戦国時代に突入したとされるが、菊池氏の遺領は菊池三家老と言われた赤星氏・城氏・隈部氏らが領するところとなった。

 

正直、戦国時代まで残っていたらと、タラレバはないが九州の勢力図変わっていたと思う、なんにしても九州から都(京都)は遠い。織田信長(美濃・現岐阜県美濃市)、豊臣秀吉(尾張・現愛知県名古屋市)、徳川家康(岡崎・現愛知県岡崎市)は都(京都)に近い。勘違いされがちだが、秀吉が信長の家来であり、家康は徳川家の大将であり、信長は家康を同格に扱った。秀吉は天下を取ったと言われたとき、家康の大坂城訪問を再三促したが同格の為、なかなか登城しなかった。秀吉の誘いに根負けし(秀吉の姉と結婚)登城、これで戦国大名は家康が秀吉の軍門に下ったとみて豊臣秀吉。太閤と呼ばれたが、将軍、摂政は源氏の血統しかなれないため関白と称した。

薩摩藩は二重鎖国で、その薩摩藩と菊池一族が手を結べば?という妄想してしまう(笑)


【菊池渓谷】
菊池渓谷(きくちけいこく)は熊本県の菊池川上流、水源にある渓谷で、阿蘇市と菊池市に属する。避暑地、紅葉の名所として知られている。

一帯は阿蘇外輪山を取り囲むモミ、ツガ、ケヤキなど広葉樹の原生林に覆われている。「渓谷美の極致」と言われた状態で残っており、阿蘇くじゅう国立公園の特別保護地区、菊池水源として名水100選に選定されている。また、くまもと自然休養林菊池渓谷として森林浴の森百選や、菊池渓谷自然休養林 として水源の森百選等に選定されている。
菊池温泉や阿蘇内牧温泉の開発に伴って、この渓谷も全国に知られるようになったが、レジャー開発をほとんど行っていないため、遊歩道(左岸は九州自然歩道)と売店・トイレがあるぐらいである。穏やかな流れで女性的な景観を擁するが、水難死亡事故は起きている。見所としては掛幕の滝、黎明の滝、紅葉ヶ瀬、竜ヶ淵、天狗滝、四十三万滝(日本の滝百選)、広河原などがある。なお、清掃協力金(強制ではない)を求められる。



 



 

 

 



 






【菊池温泉】
日帰り温泉
隈府
栄屋旅館
清流莊
城乃井旅館
望月旅館
宝来館
菊池グランドホテル
※周湯券1,500円で三つの温泉が入湯できお得です。

私のおすすめは栄屋旅館さんです。

泗水町
亀の甲温泉
辰頭温泉

七城町
七城温泉ドーム


菊池温泉
菊池温泉(きくちおんせん)は、熊本県菊池市の中心部、隈府一帯にある温泉。泉質は弱アルカリ性で肌によいため「化粧の湯」と呼ばれる。湯量が豊富。

アクセス
バス
鹿児島本線熊本駅より熊本電鉄バスで約85分。
豊肥本線肥後大津駅より産交バスで約40分。
自家用車
九州自動車道植木インターチェンジより国道3号、熊本県道53号植木インター菊池線などを経由。

泉質
アルカリ性単純温泉
源泉温度45℃。
柔らかくヌルヌルすべすべとした肌触り。良質で肌に吸いつくような濃厚な湯で、美肌効果があると言われる。そのことから「乙女の肌」ともいわれる。

温泉街
約40軒の旅館が存在する。
温泉街では「周湯券」という湯巡手形を発行しており、1000円で3カ所の温泉を楽しむことができる。
歓楽街的要素が強いことで知られ、従来は男性客、団体客がコンパニオンを呼ぶ宴会型の温泉地であった。そのため最近の女性客、個人・家族客中心の保養型志向の流れの中で伸び悩み、宿泊客数は平成元年の約44万人をピークに減少を続けている。
そこで地元では、女将が中心となって「おしどり夫婦の里」づくりを進め、「わいふ(隈府、ワイフ=妻)の湯」「美肌の湯」をうち出すなど方向転換とイメージアップをはかっている。
また歴史的街並みを保存しようと住民が景観形成協定を結び、景観整備に取り組んでいる。隈府の町中を流れている築地井手を一部復元した水辺空間や、しゃれた店舗等も少しずつ整備されてきている。街路灯にも菊池一族の並び鷹の羽の紋章や菊池千本槍をイメージした斬新なデザインのものが設置されるなど、歴史的町並みづくりへの取組みも進められている。

歴史
隣の山鹿温泉が古くから知られているのと比べると歴史は浅く、開湯は1954年(昭和29年)である。熊本市の奥座敷として栄えた。
2006(平成18)年11月には、菊池川流域の玉名温泉、山鹿温泉、植木温泉の3温泉地とともに「菊池川温泉郷づくり協議会」を発足させ、「菊池川温泉郷」ブランド化を目指して共通商品や広域観光ルートの開発などに取り組んでいくことになった。


※菊池温泉は美人湯、化粧湯と呼ばれるようにお湯がツルツルとまた柔らかなぬめりがありとても素晴らしい温泉です。私が自然の凄さを感じるのは、この泉質とほぼ同じ感覚を覚えるのが高屋温泉(宮崎県西都市)、いこいの里(宮崎県串間市)です。両方とも宮崎県ですが、阿蘇山をかろうじて通過してると思います。阿蘇という自然の偉大さか?なんのデータもエビデンスもありませんが、私が肌感で感じてるだけです。
尚、ここでは名前は出さないですが上記温泉施設には明記してます。
一人で笑いを堪えたのが

・注意書きに「湯船で入れ歯を洗わないでください」(現在、改装され変わりました)
書いてあるからには洗った人がいるんだと思ったものでした(笑)

・別の施設には「湯舟に浸かる前に必ずチ〇チンを洗ってください」

こうハッキリ書いていたら、誰も守らざる得ないですよね。

私は温泉巡りをしているのではなく、必要に駆られて(お風呂として)います。だから500円以下を目標に探して入ってきました。九州の温泉の多さ、安さに驚きました。

また、全国入り方はまちまちで「かかり湯」をしないところ、人があるんだと思ったものです。


【竜門ダム】

 

 

 








竜門ダム
竜門ダム(りゅうもんダム)は、熊本県菊池市、一級河川・菊池川水系迫間川に建設されたダムである。

国土交通省九州地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、菊池川水系における河川法に基づいた唯一のダムである。堤高は99.5mで、型式は重力式コンクリートダムとロックフィルダムの複合型、いわゆるコンバインダムであり、コンバインダムとしては日本で最も高いダムである。菊池川の治水及び熊本県北部地域・福岡県南部地域への利水を目的とした特定多目的ダムである。また、筑後川水系と菊池川水系をトンネルで連携させて水を融通することにより、福岡市への水需要にも一役買っている。ダムによって出現した人造湖は班蛇口湖(はんじゃくこ)と命名され、ウォータースポットとしても利用されている。

班蛇口湖
ダム湖は水没地右岸部の大字より「班蛇口湖」と命名された。ダム湖はヘラブナ、ヤマメ、ウグイ、カワムツの釣りのスポットである他、九州では有名なワカサギ釣りのスポットである。毎年2月には「竜門ダムワカサギ釣り大会」が行われ、200人以上の太公望が釣り糸を垂らす。ワカサギについては1998年(平成10年)より長野県より600万粒の受精卵を購入し、湖で孵化させている。班蛇口湖での釣りについては熊本県菊池川漁業協同組合が漁業権を保有しているため、入漁時には「菊池川遊漁鑑札」という許可証が必要となる。一日鑑札と年間鑑札があり、料金はそれぞれ500円と2,000円である。なお、撒き餌は湖の環境悪化を招くため、またブラックバスとブルーギルの放流は湖の生態系を破壊し漁業に影響を与えるためそれぞれ禁止されている。



【熊本市菊池市の概要】

菊池市(きくちし)は、熊本県北部に位置する市である。

地理
熊本県の北部を流れる菊池川の上流、熊本市から北東約25kmの場所に位置し、市域中央部から南西部は熊本平野の北東端にあたる。大宰府府官の流れをくむ菊池氏の本拠地・隈府(わいふ)を中心に市街地が形成されている。
東部は阿蘇外輪山の天然生広葉樹で覆われ、野鳥の宝庫。その間を縫う清冽な菊池川の源流が大小の瀬と渕と滝をつくり菊池渓谷をなしている。菊池渓谷は日本名水百選にも選ばれており、夏でも平均水温が13度で避暑地として知られ、毎年4月の山開き以後30 - 40万人の人が訪れる。この一帯の国有林は、1965年には九州で初めて自然休養林に指定されている。
北部は大分県と隣接している。
山岳:鞍岳(1119m)、八方ヶ岳(1052m)
河川:菊池川、迫間川、合志川
ダム:竜門ダム

気候
気温 - 最高38.8℃(2013年(平成25年)8月21日)、最低-9.9℃(1981年(昭和56年)2月27日)
最大降水量 - 352ミリ(1980年(昭和55年)8月29日)
最大瞬間風速 - 23.0メートル(2014年(平成26年)6月4日)
夏日最多日数 - 172日(2005年(平成17年))
真夏日最多日数 - 102日(2013年(平成25年))
猛暑日最多日数 - 23日(1994年(平成6年))
熱帯夜最多日数 - 21日(2013年(平成25年))
冬日最多日数 - 89日(1984年(昭和59年))

隣接している自治体・行政区
熊本市(北区)
山鹿市
阿蘇市
合志市
菊池郡大津町
大分県日田市

地名
平成の大合併で合併した地区は旧町村名を従来の大字の前に冠している。
片角(旧隈府町)
玉祥寺(旧隈府町)
袈裟尾(旧隈府町)
隈府(旧隈府町)
亘(旧隈府町)
小木(旧竜門村)
班蛇口(旧竜門村)
雪野(旧竜門村)
竜門(旧竜門村)
木庭(旧河原村)
下河原(旧河原村)
藤田(旧河原村)
出田(旧花房村)
木柑子(旧花房村)
広瀬(旧花房村)
北宮(旧菊池村)
大琳寺(旧菊池村)
長田(旧菊池村)
西寺(旧菊池村)
野間口(旧菊池村)
深川(旧菊池村)
村田(旧菊池村)
赤星(旧戸崎村)
今(旧戸崎村)
森北(旧戸崎村)
四町分(旧水源村)
原(旧水源村)
市野瀬(旧迫間村)
大平(旧迫間村)
重味(旧迫間村)
豊間(旧迫間村)
西迫間(旧迫間村)
木野(旧城北村→菊鹿村)
稗方(旧城北村→菊鹿村)
米原(旧城北村→菊鹿村)

七城町
小野崎(旧清泉村)
亀尾(旧清泉村)
蘇崎(旧清泉村)
橋田(旧清泉村)
林原(旧清泉村)
加恵(旧加茂川村)
清水(旧加茂川村)
甲佐町(旧加茂川村)
菰入(旧加茂川村)
新古閑(旧加茂川村)
砂田(旧加茂川村)
高島(旧加茂川村)
荒牧(旧砦村)
台(旧砦村)
岡田(旧砦村)
瀬戸口(旧砦村)
高田(旧砦村)
流川(旧砦村)
辺田(旧砦村)
水次(旧砦村)
山崎(旧砦村)
旭志(旧旭志村)
伊萩(旧旭野村)
弁利(旧旭野村)
伊坂(旧北合志村)
小原(旧北合志村)
新明(旧北合志村)
麓(旧北合志村)
尾足(旧護川村)
川辺(旧護川村)

泗水町
住吉(旧泗水村)
富納(旧泗水村)
豊水(旧泗水村)
永(旧泗水村)
福本(旧泗水村)
吉富(旧泗水村)
田島(旧田島村)
南田島(旧田島村)
亀尾(旧清泉村→七城村)

市内総生産 1789.8億円(2011年度)
江戸時代以来の米どころであり、菊池米は、「七城のこめ」が全国の名産米を集める料理新聞社「クックメール」主催の米の食味会において1996年、1998年と2度に渡り全国1位に輝いている。また、財団法人日本穀物検定協会主催の食味ランキングにおいても「熊本 城北」産のヒノヒカリがこの品種としては全国で初めて2001年度に(その後2005年度、2008年度~2015年度にも)最高ランク「特A」を受賞している。
他にもメロン・ゴボウ・シイタケ等の栽培や畜産が盛んである。2006年の農業産出額は282.4億円で、熊本県では八代市に次いで第2位、うち畜産は熊本県では第1位、全国の市町村中でも第5位である(なお2007年以降、農林水産省は市町村レベルの農業産出額統計を作成していない)。
西日本最大の酪農地帯で果物栽培も盛んであるため市内にオリジナルのアイスクリーム等を製造・販売する店が多く現れ、菊池アイスと銘打って毎年夏にキャンペーンを展開するようになっている。
第二次産業としては、自動車および電子機器関連工場が多く立地する。2012年の製造品出荷額等は1504.5億円で、熊本県では熊本市、菊陽町、大津町、八代市、合志市に次いで第6位である。
1954年に温泉が湧出してからは温泉街としても栄えたが、男性客、団体客中心の歓楽的な性格が強い。そのため、旅館の女将らが中心となって「おしどり夫婦の里」と銘打って、「わいふ(隈府、ワイフ=妻)の湯」「美肌の湯」としてうち出している。
産業別従事者比率(%)
第一次産業:20.5
第二次産業:29.1
第三次産業:50.3
菊池市に本社を置く主な企業
隈府一番館
ベルクミート
コッコファーム
倉原商店
渡辺商店
熊本畜産流通センター
熊本蛋白ミール公社
熊本県パン協同組合
久保酒店
アイ・エムコーポレーション
サンコール菊池
津地
菊池電子
南星
九州テイ・エス
山清工業九州
九州柳河精機
三重津田電器産業
ハクゾウメディカルテクノス
ナイス
エム・エス・アール
大忠
木立の中の宿 清流荘
家族風呂 湯の倉
サンデーファーム
株式会社美少年