20161011
 

今、水産庁マターのクロマグロ規制でうちは一応、規制を守ってる。
今年の初競りの一番マグロは大間、何匹も出していた。何匹も釣る?規制は?


まあ、海は広いからマグロもまた来るって言ってんのに。

・養殖は半年でやめる

・いけすの鰤を盗んで翌日、市場に出す。

・ダルマ釣り錘を落とし船を固定し糸を垂らし食いついたら速攻で糸を垂らす。親子船が多い。

その錘を切るやつがいるからたまらないw

・その前の場所取りも、早く流しこれは県が操作?している。

 

という疑問を抱えて佐賀関へ向かった。
 

道の駅に入ったのは深夜帯。
 

別府の100円温泉「不老泉」へ行き、待ち続けたから。
 

ここは車で行くべきじゃない。
数台しか停めれない駐車場に左側
と右側が列がなしている。
 

入湯してよかったか?きれいな銭湯みたいな感じで感想を表しにくい。

鯖は大きく分けて真鯖とごま鯖に分かれます。

ごま鯖には斑点があります。(下段の魚)

わかりづらいですが、背ビレの棘の数にも違いがあり、マサバは9本で、ゴマサバは10~11本ほどあって多い。

 


 

私の故郷(長崎県壱岐市勝本町勝本浦・離島)で鯖は市場に上がらず、家に持って帰り刺身などに寝る前の晩酌に出る。
二束三文だから。
旨いと思う。

佐賀関漁協に行くと「あんたんところの鯖が旨いと思うよ。」、「え!?」、「ここ豊後水道は潮の流れが速く、実がつかず脂が乗らん」。
これは視察に来ていたうちの漁師も言ってた。

その前に佐賀関は就業移住を10人定着させていた。これはすごいと思う。一本釣りで初回酔うと次は厳しい。
道の駅の館内やさかな館みたいな食事処で鯖の活きづくり4,000円。




【道の駅・佐賀関】

 

Official site


関あじ関さば館

 






 

いい価格だよね。
これが「ブランド力」

しかし、名前が届くのは恐らく西日本まで。西日本で築地(現・豊洲)が値段を参考にしたのはうち(勝本漁協・スルメイカ)だけだろう。

 

勝本浦の漁師たちは「シビ」がメインだった。クロマグロの子。
ビンナガマグロ、キハダマグロ、メバチマグロ、色々いるがクロマグロには適わない。
回らない寿司屋さんのトロはほぼクロマグロ。

その日は風が強く、何回か場所を変えて明日の朝に備えて早めに寝たつもりが眠れない。

朝一で行ったのは漁協。

こういうケースは珍しかった。中を案内してくださった。
(飛び込んでとんでもない扱いを受けたのは、一漁協だけ、名は出さないw)




夢の島からの贈り物


 

 


 

 

 

 

 

 

関鰤💦
「すごいですねぇ。」という言葉とは裏腹でどうなんだろう?

「関」という文字をつけりゃいいってもんじゃないような。

しばらく話をして辞去した。

 

ブランド力→勝本マグロ、ベタやなぁ。
壱岐剣(剣先イカ)はいいと思う。

そして販路を確立できない。

課題は山積み

あと5年で漁協は潰れるという人もいれば、10年という人もいる。

間に合うか。

え!?道の駅の話から魚の話になってる💦

ま、いいか。

アジは生であればそんなに差はでない。干し物は別だけど。

鰤→鰤、鰹→鯛などと好みは変わっていったが最後の最後に辿り着いたのは「鯖の刺身」だ。
これがなんといっても酒、焼酎に会う。
 

おふくろが言ってた。

「鯖が当たっても次の日もお父さんは鯖を食べていた」らしい。

 

漁業へのコンプレックスは少しは消えた。

 

しかしまあ、この旅を始める前はイカ釣り漁船はイカしか釣っちゃいけないと思ってた。その時、漁師のともだちに大笑いされた。それから目についた漁協という漁協に飛び込んだ。

 

自分を褒めてあげよう!w

 

世の中、勘違いされてる方が多いがおいしい魚の刺身はどこで食べれるか?

東京の高級料亭です。

次が釣ったところ

次が近隣都市の高級なお店

そして、スーパーなど。

最近はスーパーのバイヤーが競りに来るらしいです。

 

なぜ?魚は商品です。

一番高く買ってくれる所に売られていきます。

仲買が売るお店は知っているでしょう。

 

では、また。

 

 
 

20240606

魚のブランド化の凄さを知った。

後に県庁の水産課に行った。

一本釣りはどこの港でも釣れる。

うちの漁師を佐賀関に回していいかと。

快諾されたが先方から「勝本さんの船は4トンありませんでしたっけ?危ないかもしれないですよ。うちは3トンだから大丈夫ですが、船底すりません?」

そこまで考えていなかった。

就漁移住10人の話と漁師の高齢者と後継者不足について触れると

「あれくらいの人数でいいんです(笑)」

ちょっと大笑いされた。

なるほどブランド価値はあがる。

と感じたとともに現場の漁師が可哀そうに思えた。

庁舎の椅子に座る女性課長にコントロールされているとは知らないだろう。

 

しかし、各地で聞いた結果、関サバ・関アジの名前が轟くのは西日本まで全国区じゃなかった。

そうれを考えると夕張メロンの凄さを感じる。

 

ちなみに世間で「一本釣り」のイメージは竿をイメージされる方が多い。

しかし、ほぼ手引き。

竿はカツオの一本釣りくらい。

マグロは手引きと竿。

そういった意味ではうちの漁師もリスペクトせざるをえない。

みんな手がでかくなるのも仕方ない。

 

ちなみに

マグロ界隈では「東の大間」、「西の勝本」と言われているらしい。

ほぼ誰も知らないと思う。

どちらが旨いかと聞かれれば僕は即座に「大間」と答える。

なぜ?

「寒いから」

それ以上、それ以外でもない(笑)

 


佐賀関
佐賀関(さがのせき)は、大分県大分市の大字。旧北海部郡佐賀関町時代の大字名は関であったが、大分市との合併後の2006年4月1日に現在の大字名に改称した。大分市内の地区の区分では、佐賀関地区に属する。

地理
旧北海部郡佐賀関町のうちで、佐賀関半島の先端から、半島のくびれた部分に位置する佐賀関港付近にかけての区域である。字域の南方では白木、西方では志生木にそれぞれ隣接しており、北方では別府湾、南東方では臼杵湾に面する。また、半島の先端部は豊予海峡に面する。

200mの巨大煙突を持つ銅製錬業のパンパシフィック・カッパー(PPC)(日本鉱業→日鉱金属→日鉱製錬)佐賀関製錬所のある佐賀関港と関あじ・関さばをはじめとした高品質な水産品の水揚げ港である佐賀関漁港とを中心とする地区であり、古くから旧佐賀関町の中心部として栄えた。

また、佐賀関港と四国・佐田岬の三崎港の間には、国道九四フェリーが就航している。大分市中心部方面からのアクセス道である国道197号は、かつては曲がりくねった見通しの悪い一本道であったが、古宮〜小志生木バイパスの開通等により改良が進んでいる。かつては、旧国道197号と並行するように、日本鉱業佐賀関鉄道も運行されていた。

近年では、旧佐賀関町のうち半島の先端に近い佐賀関地区よりも、付け根に近いJR九州幸崎駅近辺の神崎地区の方が宅地開発により急速に活性化している。

歴史
佐賀関は、中世においては、1364年(貞治3年)に大友氏第8代当主大友氏時により大友氏の直轄領に組み込まれ、遅くとも15世紀前半には大友氏の水軍の中核であった若林氏の知行地となった。大友氏第22代当主大友義統は1588年(天正16年)に11箇条から成る佐賀関法度を発給し、佐賀関の町立や度量衡等について定めている。中世には、現在の佐賀関港は上浦又は西浦、現在の佐賀関漁港は下浦又は南浦と呼ばれていた。

大友氏改易後、近世においては佐賀関は熊本藩の飛地となった。

近代には旧日本鉱業佐賀関製錬所(1916年操業開始)の企業城下町として栄え、特に高度経済成長期までは大分県内でも屈指の人口密度を誇る地域であった。しかし、近年は若者離れによる高齢化・過疎化が著しく、2005年1月1日を以て大分市に編入合併した。これにより「佐賀関」という地名は一旦は消滅したが、地域住民の熱意により2006年4月1日に旧町の中心部であった関地区の大字名が「関」から「佐賀関」に変更され復活した。


【大分県大分市の概要】
大分市(おおいたし)は、大分県の中部に位置する市。大分県の県庁所在地および最大の都市で、中核市に指定されている。
人口では、大分県内および東九州(大分県および宮崎県)で最大、九州では福岡市、北九州市、熊本市、鹿児島市に次ぐ第5位の都市である。

概要
大分県の沿海部のほぼ中央に位置し、大分県の行政・経済・交通の中心地で、大分都市圏の中心地でもある。県内の総人口の42.7 %が集中する首位都市であり、これは九州地方の県庁所在地の中では、熊本市(42.7 %)と並んで最も高い。人口が微増していた本市も、2017年度には1981年の統計開始以来、初めて減少に転じたが、減少率は県内の市町村の中では最も少ない。現在の市域は、かつて大分郡及び北海部郡(明治初期までは海部郡)に属していた。

古くは豊後国の国府が置かれ、府内(ふない)と呼ばれた。中世には大友氏の城下町として発展し、戦国時代にはキリシタン大名大友義鎮(宗麟)の庇護のもと、日本におけるキリスト教布教の中心地となり、南蛮文化が花開いた。

高度経済成長期に、鉄鋼業、化学工業などの重化学工業の進出に伴い工業都市として急成長し、近年では電子工業の立地が進んでいる。

地理
瀬戸内海の別府湾に面し、東部には南から大野川が、西部には西から大分川が流れ、瀬戸内海に注いでいる。大分川及び大野川が形成した三角州及び沖積平野からなる大分平野と、その周りの丘陵とを抱え、中心市街は、大分川の河口西側に位置する。別府市との境界付近にあってニホンザルで知られる高崎山地区、及び、豊予海峡に浮かぶ高島地区は、瀬戸内海国立公園に指定されている。森林セラピー基地認定地域。

高速道路の大分自動車道及び東九州自動車道が市域をほぼ東西に貫通し、一般国道の国道10号、国道210号等と接続している。

市内の郊外地域ではニュータウンやショッピングセンターなどの開発により、人口の増加が著しい。

東端 - 東経131度57分46秒
西端 - 東経131度25分07秒
南端 - 北緯 33度04分11秒
北端 - 北緯 33度17分24秒

気候
瀬戸内海式気候に属し、年間を通じて温暖、少雨である。平均気温は16.8℃、降水量1727.0mm(平年値)。ただし、旧大分郡野津原町地域は障子岳、御座ヶ岳等の600~800m級の山々が連なり、内陸部への入り口に当たるため内陸性気候に属し、平地より気温が若干低くなる。

気温 - 最高37.8℃(2013年(平成25年)7月24日、最低-7.8℃(1918年(大正7年)2月19日)
最大降水量 - 443.7ミリ(1908年(明治41年)8月10日)
最大瞬間風速 - 44.3メートル(1999年(平成11年)9月24日)
夏日最多日数 - 152日(2005年(平成17年))
真夏日最多日数 - 75日(1990年(平成2年)、2010年(平成22年))
猛暑日最多日数 - 24日(2013年(平成25年))
熱帯夜最多日数 - 35日(2010年(平成22年))
冬日最多日数 - 67日(1918年(大正7年)、1936年(昭和11年))

隣接する自治体
別府市旗 別府市
臼杵市旗 臼杵市
竹田市旗 竹田市
豊後大野市旗 豊後大野市
由布市旗 由布市
伊方町旗 愛媛県西宇和郡伊方町(海上)
地名

歴史
古代
古代には、現在の大分市周辺は大分郡(おほきたのこほり)と呼ばれ、現在の市の中心部からやや南に外れた大分川下流沿い(現在の古国府)に、豊後国の国府が置かれたと推測されている。

「大分」の名は、『豊後国風土記』によれば、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と言って名づけたもので、「碩田」が後に「大分」と書かれるようになったとされる。実際には大分平野はさほど広大であるとは言えないため、今日では、景行天皇の言葉は、平野の広大さではなく、多くの田が並ぶ様子を描写したものと解されているが、いずれにしても大分平野に古くから田圃が開けていたことを示すものと言える。

中世
鎌倉時代には大友氏が豊後国守護に任じられ、第3代当主大友頼泰(貞応元年(1222年) - 正安2年(1300年))の代に豊後国に下向して土着した。元弘3年(1333年)には豊後国の守護職に任ぜられている。室町時代に入ると、第7代当主大友氏泰は、拠城をわずかに北にずらして大分川河口付近に館を構えた(現在の市の中心部の東側で、顕徳町等にあたる)。これが現在の大分市に連なる城下町のはじまりで、町の名を府内といった。現在の大分市街地中心部に残る「府内町」という地名や「府内5番街」という商店街はこの名残である。

戦国時代の府内は、最盛期には九州の過半を手中に収めた第21代当主大友義鎮(宗麟)のもとで、日本で初めての西洋式の病院が開設されるなど、南蛮文化を受容し栄えた。しかし、大友氏は島津氏等との抗争に敗れて衰退し、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻(豊薩合戦)によって炎上し壊滅したとされる。近年、大分駅付近の連続立体交差事業および区画整理事業に伴い、大友氏館跡をはじめとする中世から戦国時代にかけての府内の遺跡が発掘され、2001年(平成13年)には大友氏館跡として国の史跡に指定されている。

義鎮(宗麟)の跡を継いだ大友義統が文禄の役での失態のために改易された後、豊後国は細分され諸侯に封じられた。1597年(慶長2年)に府内を封じられた福原直高は府内城(大分城)の築城を開始した。

近世
1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いの戦功により府内藩(大分藩)の藩祖となった竹中重利によって府内城は大規模な改修が行われ、1607年(慶長12年)に近世大名の居城としての規模となった。その城下町もまた重利によって整備され、後の繁栄の基となった。

江戸時代の府内は、1712年(正徳2年)の調査によると5,591人の人口を擁しており、豊後最大級の城下町であった。

幕末時点では、現在の市域に、府内藩のほか、臼杵藩・岡藩・延岡藩・熊本藩・幕府の領地が存在した。

近代
明治になると府内には大分県の県庁が置かれ、1889年(明治22年)の町村制施行により大分町となった。明治の大合併と呼ばれる市町村合併が進む中、1907年(明治40年)に3町村を編入。1911年(明治44年)には市制を施行した。1920年(大正9年)の人口は、4万3,150人であった。

戦後・現代
全国の都市の中でも、大分市は高度経済成長期以降に急激に成長した都市のひとつである。

1950年代には大分市の人口は10万人弱で、宮崎市よりもわずかに少なく、九州(沖縄県を除く)では佐賀市に次いで2番目に小さな県庁所在地であった。

1960年代(昭和35年頃)からの高度経済成長期に入ると、工業化による地域振興を図り大分地域の発展計画のために新産業都市指定を目指した。人口要件を満たすために1963年(昭和38年)に鶴崎市や大南町などとの大合併(新設)に踏みきり、1964年(昭和39年)1月に新産業都市に指定されると、沿岸部に新日鉄などの大工場が進出した。それまでの鄙びた小都市から九州を代表する工業都市へと急速に開発が進み、大分市は「新産都の優等生」と呼ばれた。

人口も1960年代以降急激に増加し、1963年(昭和38年)の合併時には21万人であった人口が1970年(昭和45年)には26万人、1980年代には36万人、1990年代には40万人を突破し、ほぼ倍増するという著しい増加を見せた。周辺部の丘陵地帯には次々に大規模な住宅団地が造成され、城南団地、明野団地、敷戸団地などのニュータウンがスプロール化して連なる特異な郊外環境が誕生した。

新産業都市としての発展にともない、1970年代には長崎屋、ダイエー、ニチイ、ジャスコ、西友など関東・関西資本の大型スーパーが大分駅前に多数進出し、地場百貨店のトキハなどとともに九州では珍しい首都圏の郊外都市のような駅前型の繁華街が形成された。しかし、その後、商業のドーナツ化が進み郊外ではショッピングモールが開発された一方、2009年までに中心部の大型スーパーはすべてが業態転換または撤退。中心部では、大分駅の高架化に伴い2015年(平成27年)春にアミュプラザおおいたが開業している。

1997年(平成9年)4月1日には中核市に指定されている。

平成の大合併では、2005年(平成17年)1月1日、佐賀関町及び野津原町が大分市に編入された。

経済
大分市の市内総生産は約1兆9千億円と、大分県の総生産の46.8%を占めている。産業別に見ると、第2次産業の総生産が31.3%と、日本全体(国内総生産)での26.2%(2015年)に比べ高い比率を占めている。

産業別総生産(カッコ内は構成比。平成24年度 大分の市町村民経済計算(大分県)より)

第1次産業 - 8,115百万円 (0.4%)
第2次産業 - 598,187百万円 (31.3%)
第3次産業 - 1,306,005百万円 (68.3%)
事業所数(産業(大分類)別事業所数上位5位まで。カッコ内は構成比。2014年経済センサス基礎調査より)

卸売・小売業 - 5,256 (25.8%)
宿泊業、飲食サービス業 - 2,541 (12.5%)
建設業 - 2,001 (9.8%)
生活関連サービス業、娯楽業 - 1,896 (9.3%)
医療、福祉 - 1,664 (8.2%)

産業人口(産業(大分類)別就業者数上位5位まで。カッコ内は構成比。2010年国勢調査報告より)
卸売・小売業 - 39,987人 (18.1%)
製造業 - 27,556人 (12.5%)
医療、福祉 - 27,298人 (12.4%)
建設業 - 21,832人 (9.9%)
サービス業(他に分類されないもの) - 13,412人 (6.1%)
 

農林水産業
主要農産物生産量(2015年(平成27年))
水稲 - 7,755トン
にら - 1,821トン
みつば - 649トン
温州みかん - 600トン
おおば - 544トン
 

畜産物生産数(2015年度(平成27年度))
牛乳 - 9,023トン
肉豚 - 475トン
鶏卵 - 672トン

工業
1964年(昭和39年)に新産業都市の指定を受け、鉄鋼、化学、石油等基礎素材産業が進出したことにより、大分臨海工業地帯を中核に工業都市へと発展した。近年では、集積回路等の加工組立産業が進出するとともに、物流団地の整備、地域輸入促進計画のもと大分港大在コンテナターミナルが設置され、物流の拠点としても成長を続けている。2014年(平成26年)の製造品出荷額等は約3.1兆円で、全国の市町村で11位に位置する。
また、メガソーラーの進出が進んでおり、2014年(平成26年)4月末時点の太陽光発電の発電容量(10kW以上の太陽光発電設備の合計)は130,288kWで、全国の市町村で1位となっている。