ジュリアの卒業が発表されて、新曲が出て、ツアーの日程も発表されて。

気づけば、どんどんと時間は進みだしているような感じがしますね。

 

ただまぁ切り替えられていない部分もまだあるのが正直なところで。

そのへんを含めつつ、ちょこちょこ考えたことを書き留めておこうと思います。

 

 

 

〇ジュリアのソロ活動

大方の予想通り、女優業で再スタートする様子。

1発目の告知はジュリアにとっても大きな転機だったであろうスクミュのお仕事。

個人ファンクラブの開設も発表され、ジュリアも新たなスタートを切りました。

 

ただまぁ僕はどうしようかなー、というのが正直なところでして。

スクミュも申し込んでなければ、FCの登録もまだ終えていません。

いくつか理由があるんですが、小さいものから整理していきましょう。

 

 

・そもそも、舞台や女優業に対する自分の解像度が低い。

お恥ずかしい話なんですが、アイドルのライブであれば例え大きな流れが一緒のツアーだったとしても「複数回見る意味」を感じられる一方で、舞台に関しては「うーん、でも1回見たしあらすじも知ってるしなぁ」という気分になるのが正直なところです。

もちろん繰り返し見る良さもあるんでしょうし、その時にはその時ならではのポイントもあって、同じ舞台は存在しないというのもわかりますし、その感度が高い方はすごいなぁと思いますけど、いざ「自分」がどうするかとなった時に、そこで繰り返し行く選択を取る気にはあまりなれないんですよね。

スペシャルライブとかもあるので、そういう純粋な意味で「違う」部分もそりゃあると思うんですけど、うーーーーん、だからといって「よっしゃ!そのために行こう!」とはならないというか。

つまるところ、舞台やミュージカルに対する自分の興味関心はその程度なのだろう、という感じの話です。

 

 

・「女優」としての活動をどこまで本腰入れて見るのか。

僕はそもそも「アイドル」として生きる杏ジュリアを好きになったというか、ジュリアを見るうえで「とき宣が好き、とき宣のライブが大好き」という前提があって、そこにいるジュリアを応援していたので、その「上」にいないジュリアをどう見たらいいのか定まらないのが正直なところです。

これは人による話で、近しいオタクでも僕とスタンスが異なる部分はあると思いますが、僕はとき宣やメンバーに対して「アイドルである」という線をかなり強めに引いているタイプなので、裏を返せば、その視点を持つ身では「アイドルでない」元メンバーを同じ熱量で見るのは難しい、というような気もしています。

 

もちろんジュリアのことは「人」としても尊敬していますし、ずっと好きでい続けると思いますけど、そこに「熱量」を強く強く帯びていたのは、やっぱり彼女がアイドルだからであって、彼女が作るライブの時間があったからであって、彼女がアイドルとして生きる姿にたくさんのものを貰ってきたからなんですよ。

 

上で述べたように、僕が女優業に対する解像度が低いというのもありますが、女優として生きるジュリアを見た時に、僕のこの「熱」は、「女優・杏ジュリア」に向けるものなのか、アイドルとして見ていた時の熱量の延長線上にあるものなのか、と言われると、それは(少なくとも今は)はっきりイエスとは言えないのかな、と。

 

彼女のことは大好きだし、これからもずっと応援しているけれど、「好き」の形や熱は今までと同じではない、というようなことなのだと思います。

 

 

 

・そんなにサッパリと割り切れない。

これまでも話してきたように、僕はジュリアの卒業それ自体は全然受け入れているし、もっとアイドルとして活動し続けてほしかった!みたいな後悔もないんですけど、でもやっぱり、「ジュリアがアイドルでなくなった」ことは僕にとってすごく大きな変化で、今もまだ、ジュリアが去った後の空っぽのステージを思い出すことがあります。

 

まぁ簡単に言うと「スッキリ切り替えられてないよ~」ということなんでしょうけど、うん。

今のジュリアを見ても、僕はまだ「女優の杏ジュリア」じゃなくて「アイドルじゃなくなった杏ジュリア」だと思ってしまうんですよ。

ジュリアちゃんの新たな門出!全力で応援だ!頑張ってね!みたいに切り替えられたら楽なんでしょうけど、僕はまだそんな簡単に割り切れてはいなくて。

あぁ、もうアイドルじゃなくなったんだな、とか、アイドルじゃない道を選んだんだよな、とか、アイドルである時間は終わったんだよな、とか、そういう気持ちがよぎってしまう気がしています。

 

そういう意味では見れば見るほど感じてしまう予感がするというか。

女優として見るだけならまだしも、FCで行うらしいブログとか配信とか、そういうジュリアの「生身」に触れると、他でもないジュリアの存在を感じてしまう気がして、まだ僕はそんなに前向きに、というか無邪気に追う気持ちにはなれないかもな、という感じです。

 

 

 

 

ふう、そういうわけで、ジュリアのこれからをどうウォッチしようかなぁというのが目下の悩みですね。

こうなる予感がしてたから、卒業前の僕のごく個人的な感情としては「表舞台からスッキリ去る形だったら気持ち的には整理しやすそうだなぁ」くらいの気持ちだったんですが、それは仕方のない話です。

まぁおそらくとりあえずFCとかは入りつつ、舞台も気が向けば1回くらい観に行きつつ、くらいの感じにはなると思いますが……。

 

 

あとこれはジュリアの再スタートとか新体制とかに対する感想そのものではないんですけど、SNSを見てると、「望ましい行動」が先にある状況になっているような雰囲気を感じます。

受け入れて前に進むべき、これからも変わらずに応援するべき、みたいな、こうあるべきという規範にしたがって感情がデザインされているように見えて、なんかどうにもぞわぞわします。「感情」が前にあってほしい。気がする。

 

 

 

 

 

 

〇ジュリアがいないとき宣を

野球のイベントで出たとかテレビに出たとかはどうでもいいとしておいて、新体制での単独現場という意味では、大阪が船出の場所となりました。

僕ももうこの先は「自分事」ではないんだろうなぁと思いつつ、まぁ大阪だから行きやすいし、あと、「ジュリアがいなくなった後の最初」で受け取る感情もきっとあるというか、そこまで含めての「卒業」なのかなぁという感覚もあるので、とりあえず参加する予定でした。

 

 

……うん、予定でした。

 

前日の朝からなんか体がダルいなぁと感じつつ、夜になると熱があがってきて、まぁ本当に無理すれば行けなくもなかったとは思うんですが、でもそれを押して行くのも大変にアレなので、やむなく欠席となりました。

とき宣の現場を体調不良で飛ばすのは、渋谷の待ち合わせ2部とサンリオ札幌公演以来、3度目(4年弱ぶり)の経験です。

 

 

 

上で述べた理由があるので、できれば参加したかったのが正直な気持ちですけど、まーーーーでも、ジュリアの卒業直前の大事なタイミングを乗り切ってからで良かった、というのが本音ですね。

 

あとあんまりこういうので縁とか運命とか言いたくはないんですけど、ジュリアが卒業した後の初参加予定の現場でコレというのは、もう「そういう」巡り合わせなのかなぁ、という気がして、なんかもう面白かったです。

大いなる何か(というか自分の体)にも「潮時やで」と言われてる気がしました。

 

 

 

まぁあらゆる現場は行ってナンボの世界なので、行ってもない僕があれこれ言うのも良くないですけど、でも、大阪のセトリを後で見てめっちゃ後悔するとかはなかったですし、名古屋の屋外&屋根付き&コール可でのガンバはさすがにちょっと良いなぁと思いましたけど、それもたぶんもう自分の中で「特別」になることはないような気がして、うん、まぁ、こういう感情だよな、というか。

 

 

うーーーん、そう、

「ガンバはちょっと良いなぁと思いました。」

という自分の心の動きを少し整理していて。

 

もちろん、僕にとってとき宣のライブっていうのは人生の中で唯一無二の「楽しさ」がある場所で、他の何をもってしても代替不可能なものなので、そういう意味ですごく魅力的な場所ですし、それはどこまで行ってもベースラインとして存在するのだと思います。

ただその前提を置いた上で、それが「特別」になることはないのだろうというか、自分が熱中していた時、そしてジュリアがいた時に感じたあの「特別な一瞬」が訪れることはもうないんだろうな、というのも同時に感じているんですよ。

 

 

うまく伝わらないかもしれないけど、

・「とき宣のライブ」それ自体が自分にとって唯一無二のものである。

・でもその「とき宣のライブ」の中で本当に特別な瞬間はもう訪れない。

という2段構造になっているというか。

 

「ガンバはちょっと良いなぁ」というのはまさにこういう感情であって、

そのシチュエーションでその曲なら絶対に僕にとって大事な「楽しい」があるので、それに対しては素直に楽しそうだな、行っても良かったかもな、と思う一方で、

でもそれが自分にとって「特別な一瞬になりうるか」となるとそういうわけではないんだろう、という諦めもあって、「絶対に行くべき」という感情にまではならなくて、

そういう自分にとっての「今のとき宣」の立ち位置を感じるような心の動きだなぁ、というのを思いました。

 

 

 

あとは、うん、「グループが11周年を迎えたその週末にぴょんぴょんとかガンバをやったこと」に対して、僕はどこまで行っても自分事にはできないですからね。

ガンバがリリースされた当時のことも知らないし、この曲とともに彼女たちが積み上げてきた「コア」の部分を僕は体験していないので、周年という節目だからこそ、それを安易に自分のものにはできないような気もしました。

 

もっとも、ここにジュリアがいればその感じ方も違ったのかもしれません。

今思えば、僕は僕なりにジュリアを見る視点から再構成できていたというか、「ジュリアにとっての」という部分にも心を乗せていたからこその視点というのもあったので、それが失われたことで、いよいよ「自分事」のゾーンが狭くなってきたような感覚があります。

それこそビクストとかシェイプアップとか、あとは「超」以降でも初期くらいまでですかね、その時期に紐づいた曲そのものくらいでしか、僕のストーリーが真ん中に来ることはないのかもなぁ、でもそれが来たところでもうジュリアはいないしなぁ、という感じです。もう言っても仕方ないんだけどね。

 

 

 

 

まぁ上で言ったように、現場は現場で味わってナンボのものなので、行ってもない僕がこうして講釈を垂れたところで無意味というか、行ってたらまた違った感情があったのかもしれないですけどね。

でも、「行かない」時の心の整理としてはそんな感じになりました、ということでひとつご容赦ください。

 

 

 

 

 

〇現場の雰囲気

以上が本題で、ここからは余談みたいなものですが。

(そして口も悪くなりますがご承知おきを)

なんかやっぱり、ハッキリ言ってしまうと、今の現場の空気や宣伝部員さん()のことが全然好きになれないんですよね。

いつも言うようにそれは「自由」なので矯正しろというつもりはないし、ただ単に「僕とは合わない」というだけなんですけど、SNSに現れるオタクや会場ではしゃいでるオタクはいちいち癇に障るし、現場でのコールや熱量は薄くなる一方だし、端的に言って「おもんない」というか。

言い出すと本当にキリがなくなるくらい思うことがあるのでここではそんなに言いませんけど、なんか、じゃあガンバをやったところで僕が思い浮かべるような熱量や空気があるのかと言われると、それはきっと違うし、もう叶うものじゃない気がしています。

(今更すぎる話というか、ずーーっと思い続けてますが)

 

そういうのも含めて「僕にとっての特別な一瞬」はもう来ないんだろうなぁ、という感情があるというか、僕にとって熱いシチュエーションで熱い曲が来たとしても、その熱を客席全体で共有しているようなあの雰囲気はたぶんもう二度と体験できないでしょうし、あとはもっと感覚的なものとして、うっすら(というかハッキリ)今の宣伝部員が好きじゃなくて、根本的な価値観も合わないと思っている以上、そこでベクトルを同一にして盛り上がる、みたいな感情になってこないのもあって、そういう客席との親和性という点で「特別」から欠けていくものがある、的な諦めもありますね。

 

 

そしてそれを改めて感じる契機となったのが、フリラで流れてくるオタクの様子の「おもんなさ」(ここでは割愛します)と、もうひとつ、全く別次元の話として、会社の飲み会での一幕があります。

 

その日は同期や後輩と飲んでたんですけど、けっこう仲の良い同期が「とき宣好き!今度ライブ行ってみようかと思ってる」と話してくれたんですよ。

前から曲を聴いてくれたり、ひとちゃんが好きでInstagramもチェックしてくれていたり、というところはあったんですが、ついにライブにも、と思って話を聞いてみると、「アリーナよりホールに行きたい」とのこと。

そうだよね!ホールの方がライブの盛り上がりがあるもんね!わかってるぅ!と思って話を続けていたんですが、よくよく聞いてみると、「Tiktokでひとちゃんのレス動画を良く見てて!ホールの方が近くに来てくれるよな??」という動機だったようで、なんかもう、そういう感じなのか、という気持ちになってしまいました。

 

 

僕は撮可なんて絶対に無い方が良いと思ってる派閥で、それが少数派というのは理解はしていたんですけど、なんか、【ライブに行く動機の真ん中】が「そこ」だというのは、自分が大事にしていたものとあまりにかけ離れていて、うん、そっかぁ、そういう場所なんだね、と、改めて突き付けられた感じがしました。

 

もちろん、それがわかってないとライブに来ちゃいけないわけじゃない。

そもそも人それぞれなのもわかってる。

実際にライブに来て「現場」を感じてからが本番というのもそう。

 

でも、さすがに、ライブに行ってみたい理由の一番目にそれが来るというのは、なんかあまりにも悲しかったです。

昔友達と話していた「とき宣ってどうやったらもっとたくさんの人に知ってもらえるんだろうね」という問いに対するひとつの解ではあるけど、でもさ、本質とかけ離れたもので広まっていくのは話が違うじゃない、でもこれが「本質」じゃないと思ってる人ももういないのかな、みたいな、そういう感情にもなりました。

 

もちろん、それで実際にライブを観てどうなるかという部分もあるとは思うんですけど、でも実際問題、今興味を持って来る人は「撮可で〇〇ちゃんが近くに来てくれるのかな?」という層で、そういう人たちで構成される空間は、きっと僕が好きなライブの空間ではありません。

ライブに来てくれるだけありがたいというのも「そう」ではあるんですけど、何度も言うように、それが僕の思う本質から遠い部分での営為だとしたら、それは僕にとって、僕のごく主観的な感覚において「良いもの」にはなりえないのが正直な気持ちです。

(念のためですが、今は客観的な善悪の話をしていませんので悪しからず)

 

 

 

 

そして言うまでもなく今の「宣伝部員さん」の振る舞いや価値観も僕とは相容れない(詳しくは割愛します)ので、ね。

「オタクが嫌になって遠ざかる」のが本質的じゃないと言えばそれはそうかもしれないんですけど、でもその感情は事実として「現場」の熱に影響してしまうので……。

こういう部分も、僕が遠ざかっている要因のひとつではあるというか、乗り切れない感情の一部を構成しているのは否めません。

 

 

 

 

まぁこんなん、ここ数年もうずっと言ってる話で、今さらどうこう言うことではないんですけどね。

ちょっと色々と「感じてしまう」場面が多かったので、改めて書いちゃいました。

明らかに余計な話になってしまいましたが、このブログも自由なのでまぁご容赦ください。

 

 

ジュリアととき宣の再スタートのタイミングで思ったことをひとまず書き留められたので、次にこうして書くタイミングはどこなんでしょうね。

特典会でおはるに会った時か、ツアーで5人のライブを観た時か、はたまたもう書く気は永遠になくなっているか、そのへんはわからないですけど、まぁまた書こうと思った時に書こうと思います。