イエスは自分を愛するように汝の隣人を愛せ、汝の敵まで愛せよと教えた。これはキリスト教の道徳になり、西洋の価値観を形成してきた。民主主義はこの価値観を土台にして発達してきた。だから民主主義の根底には「人を愛せ」というキリスト教の価値観がある。しかし今日ではこの価値観は廃れつつある。キリスト教は共産主義の価値観に対抗することが出来ず、この価値観が急激に崩壊しているからだ。

キリスト教的価値観は「愛」を基盤として成立している。だから「愛」がなければキリスト教の価値観は無意味なものになってしまう。この「愛」は何を基盤として成立しているか?それは「神」だ。宇宙を創造した唯一絶対な「神」だ。この神が存在すればこそ「愛」が成立し、絶対なる価値観が成立する。しかし神が存在することを誰も明確に証明していない。これがキリスト教の価値観が崩壊していく要因の一つだ。

 

キリスト教徒は「敵を愛せ」と言う。しかし共産主義者からみれば、それは空論であり観念論だ。二人が争っている時、その中に入って「私は両方とも愛します」と言った場合、それを双方が聞くだろうか。そんな非現実的な愛は実践性が無い空論である。資本家と労働者が争っている時、両者を愛することはできない。支配階級である少数の資本家を犠牲にして、大多数の労働者階級を生かすのが、現実の「愛する道」ではないかと共産主義者は言う。その主張に対して誰が反対出来るか。和解させられる見込みのない階級闘争の場合「愛する」ということは大衆の側に付き、多数の味方になるというのが共産主義者の価値観だ。共産主義者がキリスト者に向かって「どちらに味方すべきかと思うか」と問うと、キリスト教徒は返答ができない。

 

哲学的根拠の欠如

今日漠然とした価値観は通用しなくなっている。何故ならば多くの主義・主張があり、それが衝突しているだ。だから「これが善なる行いだ」と言っても、それは自分なりの解釈、自分なりの価値観にすぎないということになってしまう。だから価値観の普遍性を裏付けるためには、そこに哲学的根拠がなくてはならない。従来の価値観の脆弱性の原因は確固たる哲学的根拠を持っていなかったことだ。国の為に尽くす、隣人を愛する、先生を尊敬するなどの価値観がある。しかし、何故そうしなければならないのかという理由が確立されていなかった。すなわち哲学的根拠が確立していないのだ。

共産主義者は唯物論・無神論だが、彼らにはその主張を裏付ける哲学的根拠がある。しかし自由主義者はそれに匹敵する哲学を持っていない。哲学的な根拠もなくただ漠然と「これが正義だ」と言っているだけなのだ。人道主義的価値観もキリスト教や仏教などの価値観もみなそうである。

「イエスが言ったことだから善だ」と言っても一般の人々には通用しない。「イエスも釈迦も孔子も人間である、私も人間である、だから何もイエスの教えだからといって、私がイエスの教えに従わなければならない理由はどこにあるのか。マルクスも偉大な人間だ、マルクスの教えに従ってもいいではないか」と共産主義者は言う。確固たる哲学的根拠が無ければ説得力は無いのだ。

何故従来の価値観は哲学的な根拠を持たなかったのか。それは、宗教的価値観は中世以前に成立した価値観であるからだ。この時代は専制主義時代あるいは君主主義時代で、すべては「君主の命令に無条件で従わなくてはならない時代」だった。この時代の教えは無条件的な命令(定言命令)としてなされた。何の理由もなしに「~せよ」と「~してはならない」と教えた

この時代では、定言命令的な価値観が通用した。その方がより効果的だった。しかし現代はそうではない。現代の人々は総じて分析的、実証的な傾向を持っている。だからただ「~せよ」と言われても、それに無条件で従う時代ではない。「~せよ」と言われれば「何故そうするのか」と問う。相手が説明しなければ、自分自身が「何故そうしなければならないのか」と考え、そして納得すれば従うし、納得できなければ従わない。これが現代人の意識構造だ。故に定言命令的な価値観は現代には受け入れられにくい。

一方、共産主義は哲学的な根拠を持っている。たとえば「闘争せよ」という時、必ずそれに対する合理的な説明をする。「自然現象は闘争によって営まれているということは科学によって証明されている、だから社会の発展も闘争によってなされるのだ」というように、哲学的な根拠を持って説明する。分析的、実証的な現代人はそれを受け入れ易い。したがって共産主義が悪いというならば、何故悪いかということを証明する必要がある。同時に、キリスト教的・仏教的・儒教的価値観が正しいとするならば、何故正しいかということを、自然哲学的な内容を踏まえて納得できるように説明する必要がある。

 

神学的根拠の欠如

従来の価値観のほとんどが宗教に由来しているので、宗教に影響されて一定の価値観が成立したといえる。しかし、宗教的価値観は絶対者が存在しなければ無意味なものとなってしまう。キリスト教価値観は神が存在しなければ無意味であり、儒教の価値観は天がなければ無意味であり、仏教の価値観は仏がいなければ無意味だ。したがって絶対者が存在することを証明する神学的根拠が必要になる。

神が存在することを証明することは非常に難しい問題ですが、どうしてもそれを解決しなければならない。そうすることによって従来の宗教的価値観のみならず、伝統的文化を守ることができる。すなわち、世界中の伝統的文化を守るために神学的根拠が必要なのです。

伝統的文化を守護し保存するためには何が必要なのか。それは文化を形成した宗教を救うことだ。宗教を救うことは何を意味するか。それは、宗教が持っていた価値観は正しいものだと証明することだ。すなわち、イエスの教えも釈迦の教えも孔子の教えも正しかった、ということを証明するのだ。こうして初めて、伝統的文化は価値あるものとして尊び、保護することができるのである。

ここに神学的根拠が必要になる。それがなければ宗教的な価値観はイエス・孔子・釈迦などの個人の意見になってしまう。だから絶対者の存在を証明しなければならない。しかし神の存在は科学で証明することはできない。何故ならば、自然科学の対象は現象世界すなわち被造世界だから。現象世界を越えた神の世界は科学の対象とはならない。したがって神の存在を証明することは、論理的に整合性のあるように説明するということである。

 

歴史的根拠の欠如

キリスト教の愛・儒教の仁・仏教の慈愛などを中心とした価値観が正しいとするならば、歴史的にその正当性が証明されなければならない。すなわち、愛の生活・仁の生活・慈愛の生活をすることによって、本当に社会が平和になったとか、秩序正しく発展したなどの実証的な事実を示して、その価値観の正しさを証明しなければならない。しかし、こういう実証的説明はない。それに対して共産主義の歴史観は歴史的な事実に基づいて説明している。たとえばローマ帝国が倒れたのは支配階級である貴族と、被支配階級である奴隷との闘争によるのであって、その結果封建時代になったと言っている。またフランス革命は国王を中心とした支配階級と商工業者や農民などの被支配階級が闘争して被支配階級が勝利し、その結果商工業者たちを中心としたブルジョア民主主義が実現したと言っている。このように歴史的事実を示しながら「闘争」が社会発展の原理であるということを説明している。

さらに資本主義社会は、ブルジョワジーとプロレタリアートの間の闘争があり、そしてプロレタリアートの勝利によって必ず共産主義社会になると言っている。しかしキリスト教をはじめ、従来の価値観にはそれがない。だから共産主義に負けてしまう。

 

普遍的妥当性の欠如

普遍的妥当性が無いことも、今日の価値観の弱点です。普遍的妥当性とは洋の東西を問わず、古今を問わず通用するものである。従来の価値観はそうなっていない。キリスト教の価値観はキリスト教徒だけに通用する価値観であって、他の宗教には通用しない。儒教も仏教もそうである。皆、ある限定された範囲内で通用する価値観である。また国によっても、民族によっても価値観は違う。しかし、共産主義の価値観には普遍的妥当性がある。共産主義者ならば、皆唯物論を信奉し、無神論を信奉し、弁証法を信奉しているので、彼らの価値観はだいたい一致している。そして戦略上、価値観が多様であるように偽装しているだけである。彼らは民主主義の価値観が多様性を帯びているように、共産主義社会も多様であるかのように装うが、これは自由主義社会の人々を欺くための偽装戦略にすぎない。

共産主義がなぜ日本や世界に広まったのか。その理由は共産主義の理論が非常に優秀だからである。それが彼らの「共産主義が正しいという」価値観を支えている。もうひとつの理由は、自由主義社会の環境が共産主義を受け入れやすい体質になっていることだ。何故かというと、自由主義の価値観に唯物論的性格があるからだ。自由主義価値観の唯物論的性格とは「共産主義の価値観を受けいれてしまうような、あいまいな価値観である」という意味だ。

 

たとえば人道主義的価値観です。「人間は動物とは違う」「人間である以上は、人格を尊重しなければいけない」

これが人道主義的価値観だが、これは非常にあいまいだ。それは「人間とは何ぞや」ということが解決されていないからだ。「人間なるがゆえに動物とは違う」と言うが「人間とはなにか」とつきつめて質問すれば、自信を持って答えられる人は少ない。なぜなら、自由主義社会の人々が一般的に認めているのは進化論だからだ。進化論によれば、人間は動物が進化したものであって、程度の差こそあれ人間もやはり動物にすぎない。ここから「人間は動物とは本質的に違う」という主張は出てこない。これは共産主義者の考え方と同じなので、共産主義者に付け込まれる弱点です。

共産主義者は言う、資本主義社会では支配階級と被支配階級が熾烈な戦いをしている。支配階級の人間性と人格を保護すべきか、あるいは被支配階級の人間性と人格を保護すべきか?あいまいな人道主義を信じていた人は、この質問を受けると分からなくなってしまう。彼らはまた言う、支配階級は一握りであって、彼らのために被支配階級である多数の人民大衆は苦しんでいる。人道主義者であるあなたは、誰のためにその人道主義価値観を遂行すべきか?

 

それまでは漠然と「人道主義とは誰とも仲よくし、誰にも害を与えないことだ」と単純な考えを持っていた人が、共産主義者に「そんな単純な人生観とか価値観では現実性がない」と言われると動揺してしまう。こうして、共産主義者の言うことには一理あると思ってしまい、対立的な関係があった場合には、より多い大衆のほうに味方するのが人道主義ではないか、ということになって、結局彼らの宣伝に巻き込まれ、あるいは、少なくとも彼らに反対する気持ちがなくなってしまう。「人間とは何か」という問題が解決されない、漠然とした人道主義であれば、このような結果になってしまう。

人間とは何かと言われても人道主義者は、せいぜい人間には理性があるから動物とは違うというぐらいだ。理性とは理解力や批判力のあることを言う。だから共産主義者は、あなた方には理性があるのだから社会や政府を批判的に見なければならない、と言う。そう言われるとそのようにも思われて、結局あいまいな人道主義者は、共産主義の前にもろくも崩れてしまい「共産主義こそ本当の人道主義だ」という共産主義者の主張に同意するようになってしまうのだ。