【ソウル=細川幸太郎】朝鮮戦争で激戦地の戦闘を指揮した白善燁(ペク・ソンヨプ)元韓国陸軍大将が10日深夜、死去した。99歳だった。韓国では「朝鮮戦争の英雄」と呼ばれる。韓国聯合ニュースが報じた。

 朝鮮戦争で韓国を死守 「白将軍」が死去 平壌一番乗り - 産経ニュース

白氏は1920年、現在の北朝鮮の平安南道生まれ。朝鮮半島が日本の植民地支配から解放された後に韓国軍の創設に携わった。朝鮮戦争(50~53年)では北朝鮮軍の南侵を防ぎ、連合軍とともに北朝鮮の軍を北側に押し戻した。その功績が認められ、韓国陸軍初の大将となった。

 朝鮮戦争の休戦後は、合同参謀会議議長などを歴任。軍退役後は外交官としてフランス大使などを務めた。70年のよど号ハイジャック事件では解決に尽力した。

日本経済新聞ニュースより

 白善燁将軍逝く | 戦車兵のブログ

韓国では、将軍は日本の士官学校出身で、反日ゲリラ部隊に対抗する間島特設隊に所属していたので、国立墓地ではなく靖国神社に行け、という意見が出ているようです。

 

回想録にはこう書かれています。

佳木斯の部隊に一年ほど勤務し、1943年2月に間島省(現在の吉林省)に駐屯していた間島特設隊に配属された。この部隊は1939年に創設された対ゲリラ専門部隊である。間島省には韓半島からの移住者が多く、当時200万人はいたのではないだろうか。間島特設隊は、その中から満州国軍に志願してきた者を中心として編成されていた。850名ほどの大隊規模で、隊長や中隊長の一部は日本人であったが、それ以外はすべて韓国人であった。

皆、北の出身で体は頑健、粗衣粗食に慣れており、戦士として一流の人達ばかりであった。解放後、これらの人の多くは韓国軍に入り、韓国戦争の時は連隊長クラスでよく戦った。当時の将校であった方の中には、猛将で鳴らした金白一将軍、韓国海兵隊の育ての親である申将軍や金錫範将軍らが居る。

 

1944年に入ると間島特設隊全力が熱河に出動して承徳に集結したのち、万里の長城線を越えて北京の東南で作戦を展開した。当時、私は中尉で、重火器(重機関銃、迫撃砲)を担当していた。

間島特設隊に所属した人物 ウィキペディアより

満州国陸軍軍官学校

  • 姜在浩朝鮮語版(中央陸軍訓練処4期生、第2連長、韓国陸軍少領)
  • 金白一(本名金燦圭、中央陸軍訓練処5期生、間島特設隊連長、韓国陸軍行政参謀副長、作戦参謀副長、第1軍団長朝鮮戦争で移動中に航空事故死)[5]
  • 申鉉俊(中央陸軍訓練処5期生、間島特設隊機迫連所属、韓国海兵隊司令官)[5]
  • 金錫範(中央陸軍訓練処5期生、日本陸士55期相当、間島特設隊情報班責任者、韓国海兵隊司令官)[3]
  • 崔楠根(中央陸軍訓練処7期生、「麗水・順天事件」後の第4旅団参謀長。同反乱に際しての不審な行動を問われ、後に共産主義分子と認定され銃殺
  • 白善燁(中央陸軍訓練処9期生、日本名白川義則、間島特設隊情報班主任、韓国陸軍参謀総長[3]
  • 任忠植(志願兵、韓国合同参謀議長)[5]
  • 朴蒼岩(志願兵、陸軍准将)