分かっていたようで、よく分からなかった韓国の歴史を、改めて調べ直してみました。それで分かったことは「南北統一」は、解放直後38度線によって朝鮮半島が分断された時から、民族の悲願だったということでした。たしかに共産主義者も「南北統一」に関係していたと思いますが、それだけでは国民運動として成り立たなかったように感じます。

ウィキペデイアより

 

 

1943年11月、連合国1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を自由独立の国とすることを発表した(カイロ宣言

 

The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.
前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する。

(この時点では南北分断は考えていなかった)

 

1945年2月、(中共ではなく中華民国)連四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された(ヤルタ会談の極東秘密協定

 

ソ連軍赤軍)は8月13日清津市に上陸した。アメリカ合衆国トルーマン反共主義の下、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。

 

8月24日にソ連軍は朝鮮半島北部を占領し、既に建設されていた朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施した。朝鮮半島南部には9月8日仁川に上陸したアメリカ軍朝鮮建国準備委員会を解体した後、アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を実施した。

 

日本統治下の朝鮮半島内では独立運動を志向する諸勢力も存在はしたが、独立志向組織はむしろ国外にあった、大きく分けると

①  上海大韓民国臨時政府

②  中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍抗日パルチザン

③  アメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも朝鮮半島の住民から大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。

このような情勢ゆえに日本降伏時、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合は全く醸成されておらず、日本統治からの突然の「解放」は、連合国軍により「与えられた解放」であった。

朝鮮人が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた。

 

朝鮮建国準備委員会

 

諸勢力の中でも比較的統制のとれていた呂運亨の集団は、日本降伏を見越し8月10日、密かに建国同盟を結成していた。一方、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、呂に接触して行政権の委譲を伝えた。呂は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ8月15日、日本降伏の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成。超党派による建国を目指した。

呂自身は左右合作による朝鮮統一を目指していた。8月16日には一部の政治犯が釈放され建国準備委員会に合流したが、その多くが弾圧された共産主義者であり、同委員会は必然的に左傾化した。

9月6日、同委員会は朝鮮人民共和国の成立を宣言。その要人には李承晩金日成朴憲永金九曺晩植らが名を連ねていたが、これは国内外の主だった活動家を本人の許諾なく列挙したに過ぎなかった。

 

一方、連合国はすでに朝鮮半島の信託統治を決定していた。彼らにとって朝鮮人民共和国は、日本がポツダム宣言に違反し連合国の承認を経ず勝手に建てた政権と映った。

総督府(日本側)も左傾化を嫌うアメリカの意向を受けて態度を変え、建国準備委員会に解散を命じるなど情勢は混乱した。さらに同委員会内部でも対立や離反が相次ぎ足並みが乱れた。

 

9月11日アメリカによる軍政が開始され、朝鮮人民共和国は連合国・枢軸国双方から承認を得られぬまま事実上瓦解した。

建国準備委員会はその後も活動を続けたが、軍政庁はこれを非合法とみなした。

 

朝鮮半島内で各派の足並みが揃っていない状況下、大韓民国臨時政府(上海)に弾劾され、アメリカで活動していた李承晩や、ソ連の支援の元で反日闘争をしていた金日成を初めとする満州抗日パルチザン出身者など、様々な考え方を持った亡命者たちが次々に帰国し、独自の政治活動を展開していった。しかしこの過程で、朝鮮半島に発生した各臨時政府はいずれも連合国からの承認を得られなかった。

 

194512月、モスクワ三国外相会議が開かれ、朝鮮半島問題も議題となった。この席でアメリカは、朝鮮半島における民主主義的な政府の建設を目標として、暫定政府を成立させた後に、米英ソと中華民国の4か国による最長5年間の信託統治を提案した。(モスクワ協定)その後アメリカとソ連でその方法を継続して協議することになった。

ところが韓国民主党系新聞の東亜日報が協定について「アメリカはカイロ宣言を根拠に朝鮮は国民投票によって政府の形態を決めることを主張し、ソ連は南北両地域を一つにした一国信託統治を主張して38度線での分割が継続される限り国民投票は不可能だとしている」と事実と異なる報道をしたため、国内での反信託運動が大きく広まった。

 

信託統治にはほとんどの派が、完全独立を主張し反対を表明していたが、年が明けると左派は一転して信託統治賛成に回った。

右派は信託統治には反対だったが、内部では親日派や資産家が多い韓国民主党と臨時政府派が対立した。

金九を主席とする臨時政府派は、即時独立を求めて全国ストライキを訴えるなど過激化していった。

軍政庁は行政運営上、治安問題の解決のため、即時独立に固執せずアメリカの方針を理解する韓国民主党を重用した。さらにアメリカ政府の意向に反して反信託運動を黙認してしまった。ここに李承晩が合流した。

 

 

李承晩はマッカーサーの専用機に搭乗して帰国するやアメリカの意を受けて建国準備委員会や臨時政府側とも距離をおき反共統一を掲げた。

朝鮮には他に有力な反共の右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。即時独立を求める民族派金九中道派呂運亨左派朴憲永といった有力活動家がアメリカと正面から対立する中で、李はアメリカ軍政をある程度容認していた事も大きい。

 

一方北ではソ連が曺晩植に接触し、信託統治の容認を求めたが容れられなかった。そのためソ連内にとどまっていた金日成の支援に回った。ソ連の正式な後ろ盾を得た金日成によってその後、国内の他の共産主義者たちは時間をかけて粛清されていくことになる。

アメリカとソ連は、独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、李承晩は反信託運動とともに反共・反ソを激しく主張した。ソ連はアメリカに李承晩らの排斥を訴えたが、アメリカは反信託よりも反共を重視して聞き入れずお互いの姿勢を非難して対立、信託統治案は頓挫した。

 

19477月、中道派呂運亨が暗殺され、左右合作運動は挫折した。この左右合作運動の挫折や、米軍政庁の共産主義者への弾圧によって南では、李承晩や金九ら右派民族主義者の影響が強くなっていった。李承晩は信託統治に反対する一方、南側だけの単独政府樹立を主張していた。

 

アメリカはモスクワ協定を諦めて朝鮮の独立問題を、国連に持ち込んだ。

単独選挙に反対していた金九と金奎植(キムギユシク)は、金日成ら南北指導者会議の開催を呼びかけた。「分断国家は無効にして、話し合いによって民族統一国家を建設すべきである」という金九らの意見が大衆の心を掴み始めると、李承晩の単独政府樹立路線と対立するようになった。

 

1948815日大韓民国政府が樹立

194899日朝鮮民主主義人民共和国が成立

 

金九が1949年6月に暗殺されると、李承晩は北に侵攻する北伐論まで展開するようになっていった。