原理講論542ページには

第1次世界大戦において、米、英、仏、露など、連合国の側の主動国家はキリスト教国家であるばかりでなく、回教国であるトルコ内で迫害を受けていたキリスト教徒を解放させようとした国家であるので、みな天の側になり、ドイツやオーストリアなど同盟国側の主動国家は、キリスト教を迫害する回教国家であったトルコを支持したので、それらの国家はみなトルコと共にサタン側となった。と書いてあるが、トルコの参戦理由は

 

オスマン帝国トルコは長い間北方からロシアに圧迫を受けて領土を減らしていた。そして更に圧迫を受ける驚異を感じていた。長年の仇敵という間柄だ。
もし、ロシアが第一次世界大戦に勝利すればトルコおよびバルカン半島のパワーバランスがロシアに傾く恐れがあるという計算が働いていた。
当初、オスマン帝国は参戦を渋っていた。黒海においてロシア海軍がオスマン海軍に対して優位にあったため及び腰の姿勢だった。しかしドイツの地中海艦隊(弩級戦艦1 巡洋艦1)がイギリス艦隊に追われてトルコに逃げ込んで来たことで状況が一変した。オスマン帝国がこの最新鋭の艦隊を使えば黒海においてロシアの旧式戦艦部隊に対抗できる目処がついたからだ。
また、逃げ込んできたドイツの艦隊を保護するかどうかという問題は曖昧には出来ない問題だった。ドイツの艦隊を追い出せば艦隊はイギリス艦隊にやられてドイツの恨みを買う。ドイツの艦隊を保護すれば連合国を敵にまわす。一気に決断しなければならない状況に追い込まれた。(この時オスマントルコはまだ中立国であり、イギリス艦隊が海峡に入ることはできなかった。)
どうしてもどちらかの側につかなければいけない状況になって結局ドイツの側についた。
オスマン帝国はドイツの3B政策によっても帝国が脅かされていた。また、この「回教国であるトルコ内で迫害を受けていたキリスト教徒を解放させようとした国家」という捉え方は、キリスト教国家によるオスマン帝国侵略を肯定するものと捉えられても仕方がないような気がする。これは十字軍的な発想ではないのか。

 

オスマン帝国のプロテスタント対策

 

オスマン帝国スルタンは、領内におけるキリスト教ユダヤ教の信仰に寛容を示すことで知られていた。一方、スペイン王はプロテスタントの信仰を許さなかった。事実、当時、オスマン帝国は宗教的寛容で知られていた。さまざまの宗教的亡命者、たとえば、ユグノー英国国教会クエーカー再洗礼派、さらに、イエズス会カプチン・フランシスコ修道会の亡命者が、帝国各地やイスタンブールに亡命することができた。 ここでは居住と信仰の権利を与えられていたのである。さらに、オスマン帝国は、トランシルヴァニアハンガリーカルヴァン派だけでなく、フランスのカルヴァン派をも援助したのである。

当時のフランス思想家ジャン・ボダンは、次のように著している。

トルコの偉大なる皇帝は、世界の如何なる王子がするような献身をもって、父祖以来の信仰を守ってきたのみならず、他の異なる宗教に嫌悪を示さなかった。のみならず、自らの信仰に従って生きることをお許しになったのである。いな、それ以上に、ペラの宮殿のそばに、ユダヤ教キリスト教ギリシア正教、さらにイスラムを受け入れたのである。

 

原理講論によれば第1次世界大戦は神側である連合国側の勝利であったと書かれているが、それには疑問を感じるところがある。果たして勝者はいたのか。

 

第一次世界大戦の犠牲者は、戦闘員および民間人の犠牲者の総計として約3700万人が記録されている。第一次世界大戦の二大陣営である連合国(協商国)および中央同盟国(同盟国)を合わせた犠牲者数は、戦死者1600万人、戦傷者2,000万人以上を記録しており、これは人類の歴史上、最も犠牲者数が多い戦争の1つと位置付けられている。

上記の数値には約1,000万人の軍属と約700万人の民間人犠牲者が含まれている。第一次世界大戦の対立陣営の1つである連合国では約600万人の軍人が犠牲となり、同盟国では約400万人の軍人が犠牲となった。また、少なくとも戦争を起因とする疾病によって亡くなった者(戦病死者)は200万人、行方不明者は600万人とされている。

ウイキペディアより

このような膨大な犠牲がなければ摂理は進まなかったのか疑問を感じます。摂理は再臨のメシアの誕生をもって始まるのではないでしょうか。

 

イタリアの参戦

イタリアは名目上1882年からドイツとオーストリア=ハンガリー帝国と同盟していたが、戦争の始め、イタリアはドイツとオーストリア=ハンガリー側につくことを拒否した。イタリアは、イタリア統一戦争の時オーストリーと戦っており、オーストリーとは仲が悪かった。
そして、開戦から約1年後の19154月にロンドン協定に署名し協商国側に参加した。同5月にオーストリア=ハンガリーに宣戦布告、さらに15カ月後にドイツに対して宣戦布告した。第一次世界大戦で連合国側に参戦すればイタリアの植民地確保に協力するとのいわゆる「ロンドン密約」が、1915年4月26日、英仏伊間で結ばれ連合国側に参戦した。