統一教会の現象学的考察より

リー・ヨンドの神秘主義(東岸)
リー・ヨンドがとりわけ重きをおかれるのは、結核を患ってキリストが十字架に架けられた年齢と同じ33歳で死亡したとされるからだ。当時の朝鮮では神秘主義者かつ信仰復興論者の牧師として有名で、朝鮮半島全土を伝道してまわった。彼は最晩年に異端として告発されるまでは、キリスト教主流の諸派から説教を依頼されていた。あるキリスト教主流派の信徒の情報によると、リー・ヨンドの礼拝集会では、信者が裸になって儀式を行い、ムン・ソンミョンも常時その集会に参加していたという。しかしその理由は後で述べるが、この証言はどうも疑わしい。

リー・ヨンドはたえず身体の不調に苦しみ、25歳で重い肺疾患に冒された。友人の故郷で養生していたとき、村人に教会で説教をしてくれと招かれた。ところがいざ説教する段になると言葉につまり、ただ涙をこぼすばかり。心を揺さぶられた会衆も涙を流す。リー・ヨンドは、神との神秘的な関係を体験したが、その体験は言葉では要約できないと悟った。彼自身「語るな、これが私のモットーだ」と言ったように、神秘的な関係とは、合一としか表現できないもの、あるいは花婿にたいする花嫁の性欲の象徴に使われる性的イメージとでも表されるようなものだった。

しかし、リー・ヨンドはその後神との神秘的な関係を表す新しい陰喩、すなわち「主との血の混合」という隠喩を発展させ、自身を苦悩するキリストになぞらえた。
リー・ヨンドは自分とイエスをあからさまに同一視した結果、キリスト教主流の非難を招くことになった。そしてあまりの攻撃に、彼はやむなく自分の教団を創始するしかなかった。その教団成立の陰には、別の新キリスト教集団を率いていた神秘主義者ファン・ククジュの協力があった。

キリスト教主流派の歴史学者ミン・キョンベによると、この教主はイエスに似せようと髪やひげを伸ばし、自分の頭は切り落とされイエスの頭と交換されたのだと主張したという。「私の頭はイエスの頭、私の血はイエスの血、私の心臓はイエスの心臓……私は完全にイエス・キリストに変身した」ファン・ククジュは宗教によるトランス状態は性的恍惚感と同じようなものだと主張した。ミン・キョンベはこう評する。
ファン・ククジュは三角山に祈祷院を建て、教義や礼拝式に首と血の交換を説いた。これらの交換の過程は霊体交換の実現と呼ばれたが、実態は姦淫だった。ちなみに主流派のキリスト教徒であるミンには、儀式化された性の実践と乱交の区別がつきにくくなっていることを注意しておきたい。
リー・ヨンドはこれら新キリスト教の神秘主義者たちがイエス教会を興したとき、協力はしたものの、抗議するする姿勢は崩さなかった。「私の命はもう長くはない。どうかこれ(新教会の設立)はやめてほしい。最愛の者たちが別れなければならないのだろうか。あなたがたの本体である教会が分立しなければならないのだろうか」
「ああ、私の名が新教会の創始者と呼ばれる悲しさよ」

本項に述べたとおり、ペク・ナムジュとリー・ヨンドの宗教集団は実質的には同じものだが、統一教会はそれぞれを別の教団として扱っている。二教団を別個に扱わなければ統一教会が発展させたがっている神学史のうえで、統一教会の立場が裏付けられないからだ。ムン師によれば、リー・ヨンドのイエス教会が胎内教と統合するのは神の意志であり、天使長がイブのもとへ行ったことを再演する意味があった。しかしこれは実現しなかった。「……この二教団が統一されなかったため、神は新しい運動を興し、新たな場所を開拓しなければならなくなった」
リー・ヨンドが1932年に病没すると、その魂はイスラエル修道院を興したキム・べクムンに乗り移ったとムン・ソンミョンは語る。
統一教会の現象学的考察より

イスラエル修道院
イスラエル修道院は、名称こそ「清水教」と変更されているが(1993年時点)今でもソウルに近い韓国の西海岸に存在している。キム・ペクムンは、のちに統一教会が奉ずることになる堕落論と同じ考えを説いた。つまり堕落はルシファーとイブの性行為の結果であり、血を清めることで復帰が達成できるとした。
キム・ベクムンには「聖神神学」(1954年)と「キリスト教根本原理」(1958年)の2冊の著作がある。後者は三年余におよぶ講義をまとめたものだ。ムン・ソンミョンの「原理原本」はキム・ペクムンの著作の盗用だと言われている。それに対して統一教会側は、キム・ペクムンのほうがムン・ソンミョンの思想の内容について啓示を受けたのだと主張したものの、具体的な対応はしなかった。ムン・ソンミョンが「原理原本」を1952年に完成し、キム・ペクムンの著作の出版が統一教会創立以後だという事実からすると盗用の告発は度外視してよいだろう。しかしながら、ムン・ソンミョンが1945年から1946年までのあいだ、イスラエル修道院の信者だったことは事実で、二人は密接な関係にあったため、類似性が指摘されるのも当然だ。ムン・ソンミョンは地方に隠遁の地を求めて移転したイスラエル修道院の平壌支部を任されることになった。
光海教会と訳されるクァンハエ教会は、イスラエル修道院の同支部のことだった。クァンハエを光海と訳すのは誤解に基ずくものらしい。この教会には正式な名称はなかった。教会の建物もなく、信者たちが野外で集会を持ったため“荒野”を意味するクァンヤという言葉が使われていただけだと思われる。
イスラエル修道院内で、ムン・ソンミョンはもっと高い地位が与えられると期待したらしい。キム・ペクムンは洗礼ヨハネの「位置」に立って、彼が救世主であると証言することもできた。しかしキム・ペクムンは証人とはならず、ちょうど洗礼ヨハネがイエスに背き、その救世主としての使命を疑ったように、イスラエル修道院はムン師に厳しい態度をとった。そのためムン・ソンミョンはイスラエル修道院にとどまることができなかった。