●今日のみことば

マタイの福音書7章8節

「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

ルカの福音書19章10節

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

 

●教えられたこと

 

a.)小さな違い

 今日は、日本語の「さがす」について考えたいと思います。はじめに、二つの聖書のことばを紹介しましょう。

 

 マタイ7:8

 「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 ルカ19:10

 「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

 

 どちらの「さがす」も原文では、ゼーテオー(ζητέω)という同じギリシア語が使われています。しかし、聖書の日本語訳(新改訳2017)を見ると、同じギリシア語ゼーテオーでありながら、「探す」と「捜す」といった具合に、漢字の用いられ方が異なります。「探す」と「捜す」。

 あるとき、ルカの福音書19章10節を書き起こしたものを含む文章を添削してもらった際、私は、その箇所を「人の子は、失われた者を探して救うために来たのです」と書き起こしていました。すると、添削者から「この箇所は、『探す』ではなく、『捜す』ですよ」と丁寧な指摘をもらったのでした。

 「なんだそんな細かいことをいちいち」と思われるかもしれません。しかし、この小さな日本語の違いから、神の救いの意味を今一度、確認することができます。

 

b.)「探す」と「捜す」

 日本語辞典を開きましょう。大辞林によると、以下のように解説されます。

 「探す」は“手に入れたいものを見つけ出す”の意。「下宿を探す」、「仕事を探す」

 「捜す」は“失ったものなどを見つけ出す”の意。「落とした財布を捜す」、「犯人を捜す」

 「探す」は、「手に入れたいものを見つけ出す」時に使うようです。つまり、自分の所有物ではなく、厳密に言えば、本当にあるかどうかも分からないものをさがす時、「探す」と表記するわけです。

 他方、「捜す」は、「失ったものなどを見つけ出す」時に使うようです。つまり、実際に存在するもの、あるいは、自分の所有物だったものを無くしてしまった時の「さがす」は「捜す」と書くのです。

 面白いですね。日本語の「さがす」には、二つの表記があり、その意味の違いもはっきりしています。それでは、聖書において「探す」と「捜す」はどのように使い分けられているでしょうか。

 

c.)捜して救うために

 マタイの福音書7章7節では、「探しなさい」と命じられています。この箇所では、ギリシア語ゼーテオーの命令形(ζητεῖτε)が使われています。また、冒頭で述べたように、直後の8節でも「探す者は見出し」と続きます。

 この場合は、「探しなさい」と命じられている私たちは、見出すものをまだ持っていません。また、具体的にそれが何であるのかも知りません。それは私たちが見たこともないものかもしれないのです。

 したがって、この場合の「さがす」は、「探す」の漢字使用が望ましいのです。

 

 それでは、ルカの福音書19章10節はどうでしょうか。直前の9節から読んでみます。

「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』」

 ここでは、取税人ザアカイが神にとって、失われた者であったと語られています。だからこそ、神は、失われたザアカイをさがして救うために来られました。本来、神のものであったザアカイを神はさがして見出そうとしました。したがって、この箇所の「さがす」は、「捜す」が相応しいのです。

 

 すると、こんなことが言えませんか。神は単にやみくもに私たち失われた者を探しているのではない。そうではなく、実在のある確かな存在として、本来は神のものにあるべき存在として、私たちを捜しておられる。

 ルカの福音書19章1節には次のようにあります。

 「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。」

 なぜイエス様は、わざわざエリコにやってきたのでしょうか。なぜ、イエス様はザアカイの名を知っていたのでしょうか。そして、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」(19章5節)と言えたのでしょうか。

 適当に歩いていたらたまたまザアカイがいて、偶然にも発した名前がザアカイだったのでしょうか。いいえ、そんなことはない。イエス様は、ザアカイがエリコにいること、ザアカイの名前、ザアカイがいちじく桑の木に登るのをご存知でした。

 イエス様は、ザアカイと元々出会うためにご自分の歩みを定めておられたと言えませんか。すなわち、失われたザアカイを「捜して救うために」イエス様はその歩みの一歩一歩を決めておられました。

 

f.)まとめ

 私たちは、イエス・キリストに捜されています。それは、やみくもに本当に存在するかしないか分からない中で探されているのではありません。そうではなく、イエス様は私たちの存在を確かに知っており、私たちを救うために、私たちに近づき、出会おうとしてくださっているのです。

 イエス様は、私たちを捜して救うためにこの世に来られました。イエス様は私たちを確かに救うために、着実にその歩みを私たちに向けて一歩一歩近づいてくださっています。

 そのようなイエス様の情熱を、「捜す」という漢字表記から感じ取ることはできないでしょうか。本当に小さなことかもしれません。しかし、私は聖書を翻訳し、この漢字表記を使用することを選んだ訳者たちの意図や、日本語表現から垣間見ることのできる、神の情熱的な救いのみわざの意味を、改めて噛み締め、確認したいのです。

 

●祈り

 主よ、本当に小さな日本語表現の中に、あなたの情熱を感じ取ることができました。あなたは、私たち一人一人を今日も捜して救うために働いておられます。このあなたの大きな愛と贖いのみわざを覚えて、あなたの御名を崇めます。